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「平家物語 巻の九」のあらすじと概要

2012年1月28日  参照回数:

 平家でなければ人ではない、と豪語し、栄華を極めた平家一門ですが、平清盛の嫡子で人望の厚かった平重盛が病死し、清盛も世を去りました。いっぽう、都で源頼政が、鎌倉で源頼朝が、長野・新潟を中心とする北国で源義仲が平家追討の旗を揚げました。頼政は討ち取られましたが、源義仲が、倶利伽羅峠の決戦で平家を破り、後白河法皇を奉じて上洛しました。

 しかし、田舎育ちの義仲はうとまれ、後白河法皇は義仲追討を決意し、院の御所・法住寺殿に兵を集めます。が、公家や寺社からの寄せ集めだった後白河法皇軍は、武士からなる義仲軍の敵ではありませんでした。後白河法皇は義仲の手に落ち、都は義仲の独裁となりました。

 いっぽう平家は、四国の屋島を拠点に、四国、山陰、山陽などの国々を奪い返します。都の義仲、東国の頼朝、西国の平家という3つどもえの状態のまま、寿永3年(1184年)の正月を迎えます。平家物語「巻の九」は、その寿永3年(1184年)の正月から始まります。

 平家物語「巻の九」のあらすじを振り返ってみたいと思います。

 寿永3年(1184年)の正月は混乱の中で迎えられましたが、鎌倉の源頼朝から派遣された源範頼・源義経の義仲追討軍がようやく都に到着しました。大手の源範頼が勢田橋から、搦め手の源義経が宇治橋から、都へ攻めてきます。義仲の軍は多くが故郷へ帰ってしまい、数千しか都に残っていませんでした。上洛軍6万との戦いは、最初から勝敗が決まっていました。

 源義仲と、義仲の四天王と呼ばれた今井兼平、樋口兼光などが討ち死にしました。義仲を追討した鎌倉軍の範頼・義経は、後白河法皇から手厚く迎えられます。安徳天皇は平家と共に西国におり、三種の神器も平家の手にありますが、平家が落ち、義仲が倒れた今となっては、後白河法皇が擁立した後鳥羽天皇は幼く、都では後白河法皇が唯一の政治的キーパーソンとなりました。

 平家は、四国や山陽の反平家軍との戦いに勝利し勢いを増します。また、能登殿と呼ばれた能登の守・平教経が武名をあげます。平家は、四国の屋島から、いったんは捨てた都・福原まで戻りました。堅固な地形に囲まれた一の谷に城郭を構え、都に残っていた平家勢力も、いつ平家が都に帰ってくるのかと期待を膨らませました。平家が動員した軍事力は、再び、10万騎とまでいわれました。

 いよいよ、源頼朝と、平家一門との戦いが始まります。しかし、頼朝は鎌倉に留まっていましたので、いわゆる「源平合戦」と呼ばれるときの戦いは、源範頼・源義経軍と平家一門との戦いになると思います。

 その源範頼・源義経軍が都を出て、一の谷へ向かいました。

 一の谷は3方を海とがけに囲まれ、正面は入口が狭く、奥が深く、まさに要塞と呼ぶにふさわしい拠点でした。鎌倉軍は、再び、大手の範頼軍、搦め手の義経軍に分け、一の谷の戦いが始まりました。源平ともに激しく戦い、坂東武者たちは命を惜しまず突き進みましたが、正面攻撃をかけていた範頼軍には、平家軍を突き破る見込みがなくなりました。それだけ、平家の城塞が堅固でした。

 勝敗は、搦め手に回った義経軍が決しました。義経は、1万の軍勢をさらに2つに分けました。7000騎を土肥実平に預け、城塞の西の口を攻めさせます。自らは、3000騎を率いて、山道を進軍し、鵯越(ひよどりごえ)のがけから軍勢を落として、平家の城郭に火をかけました。

 ここで、源範頼と、源義経の印象を少し。

 正面攻撃をかけて、破ることはできなかったにしても、引くことはなかった源範頼は、総司令官として本陣に腰を据え、大軍を統括するだけの器があったのかもしれません。いっぽう、当時の価値観や戦いのあり方が背景にあることはいうまでもありませんが、義経は、指揮系統を重視するよりは、独断専行タイプで、自ら先頭に立って刀を振り、子飼いの遊撃隊・別働隊を指揮するタイプかもしれません。部下には、武蔵坊弁慶など、見方によっては、どこの馬の骨かすらわからない荒くれ者どもが多かったようです。そういった者たちの心をつかむことにも長けていて、義経は、盗賊や海賊の棟梁になったら力を発揮するタイプかもしれないとも思えました。

 話がそれましたが、義経軍の放火により、一の谷の合戦の勝敗が決しました。平家軍は混乱に陥り、海を目指して、敗走します。舟にたどり着いた者もいましたが、一の谷の戦いで討ち死にした一門の将軍も10人いました(平通盛、平業盛、平忠度、平知章、平師盛、平清貞、平清房、平経正、平経俊、平敦盛)。

 また、平重衡は生け捕りにされました。討ち取られた平敦盛はいったんは沖の船を目指して追手を振り切りましたが、熊谷直実に呼ばれ、引き返し、首を取られました。織田信長が愛した、「人間五十年」で有名な謡曲「敦盛」は、この平敦盛を謡ったものです。また、平通盛の北の方・小宰相は、通盛の死を知り、あとを追うために、海に身を投げました。



(318)首渡し

(319)平維盛

(320)平重衡



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