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「平家物語 巻の十」のあらすじと概要

2012年2月4日  参照回数:

 「巻の九」までで、一の谷の決戦が語られました。大手の源範頼軍は、正面からのガチの要塞攻撃をしかけ、源平ともに大量の死傷者を出しました。勝敗は、搦め手の源義経軍が鵯越(ひよどりごえ)の坂から軍をおとして、平家の城郭に火をつけることで決しました。平家は大敗を喫しました。

 平家物語「巻の十」は、一の谷の合戦の戦後処理からはじまります。「巻の十」のあらすじをみてみたいと思います。

 一の谷で討たれた平家一門の首が都に到着しました。大臣にまでのぼった人の首が引き回され、獄門の木にかけられた例はないので後白河法皇はちゅうちょしましたが、源範頼・源義経が源氏の会稽の恥を注ぎたいとつめより、後白河法皇が折れ、首が大路を引き回されました。

 その首の中に、平維盛のものはありませんでした。維盛の妻子は都に留まっていましたが、混乱の中で維盛の行く末を心配します。病気で一の谷の戦いには参加していなかった維盛は、なんとかして妻子の顔を見て、また、自分の顔も見せたいと、屋島を抜け出します。しかし、都へ行ってつかまったら恥だと、高野山へ行き、旧知の者に髪の毛をそってもらい出家しました。宿願だった熊野詣を果たし、那智の沖で入水します。そのことを伝え聞いた維盛の北の方も出家しました。

 維盛が恥だと思ったのは、すでに、一の谷の戦いで生け捕りにされていた平清盛の子・平重衡が都を引き回されて、そのうえ、鎌倉へ下されていたからでした。維盛は、重衡が京と鎌倉で恥をさらしたうえ、自分までもが恥をさらしてはと、都へ行くことを思いとどまりました。

 その重衡なのですが、都を引き回された後、鎌倉へ送られ、源頼朝に面会しました。重衡はいいわけをせずに毅然とした態度で申し開きを行いました。さすがの頼朝も、平家が頼朝個人の敵だというわけではない、などと口にしました。また、鎌倉では、宿で、頼朝の世話をしていた千手の前という14、5歳の少女に、重衡はもてなしを受けました。

 都では、後白河法皇から、平家に、重衡を返してほしくば、三種の神器を都へ戻せという院宣を屋島の平家に出しました。しかし、平宗盛は拒否し、その後、重衡が鎌倉へ送られます。

 いよいよ、都から、平家追討軍が出発します。大将軍は源範頼で軍勢は3万。岡山県に陣を敷き、平家も屋島から船で児島にいきます。藤戸に陣を敷いた源氏には船がありませんでしたが、佐々木盛綱が、浦の人から、海が浅くなることを聞き、小島へ渡ります。海を渡る源氏3万と、平家の船500艘が乱戦となりました。夜が明けて、平家は屋島へ退却します。

 「巻の十」では、源範頼の性格に関わるようなことも語られました。それは、平家が屋島を退却したあとに、すぐに範頼が追撃していれば、平家はたやすくほろんだろうに、範頼は、遊男・遊女を呼び集め、たわむれていたという記述です。

 巻の十」の中で、1184年に、元号が、寿永3年から、元暦元年に改元したことが語られました。「巻の十」は、元暦元年が暮れるところで終わります。



(342)源義経

(343)梶原景時

(344)勝浦合戦



「巻の一」のあらすじ

「巻の二」のあらすじ

「巻の三」のあらすじ

「巻の四」のあらすじ

「巻の五」のあらすじ

「巻の六」のあらすじ

「巻の七」のあらすじ

「巻の八」のあらすじ

「巻の九」のあらすじ

「巻の十」のあらすじ

「巻の十一」のあらすじ

「巻の十二」のあらすじ

「灌頂の巻」のあらすじ

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