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登場人物:平維盛の北の方、源頼朝
平維盛の北の方は、幼い子どもといっしょに都に残されていました。維盛からの風の便りの訪れも絶えて久しくなりましたが、それまでは月に一度は必ず便りがあったと、北の方は、連絡を待ち続けているうちに、春が過ぎて夏になりました。ある人から「平維盛殿は、今、屋島にはいない」などと聞き、あまりのおぼつかなさに、なんとかして使者を一人立て屋島へ遣わしました。しかし、使者はすぐに帰ってくるわけではありませんので、夏も過ぎて秋になりました。
7月の末、使者が戻りました。北の方が「どうでした」と聞くと、「維盛殿は、過ぎし3月15日の暁、重景、石童丸を供にして、讃岐(香川県)の屋島の館を出て、高野山へ参詣し、出家されました。その後、熊野へ詣で、那智の沖にて、御身を投げたと、供をした舎人の武里が申しました」と使者は答えました。北の方は、「だから(便りが途絶えたのだ)。怪しいと思っていた」と、布団を引き被って伏してしまいました。若君、姫君の2人の幼子も、声をあげて、泣き叫びました。
若君の乳母の女房が、涙を抑えて、告げました。
「今更、嘆いてはなりません。平重衡殿のように、生け捕りにされて、都と鎌倉で恥をさらしたのならどれほど心憂いことでしょうが、維盛殿は、高野山に参詣し、出家されております。そのうえ、熊野へ参られ、後生のことをよくよく申し伝え、那智の沖という場所で、身を投げられた。それこそ、嘆きの中のよろこびではございませんか。今は、いかにしても、北の方様も出家されて、仏の御名を唱え、亡き維盛殿の菩提を弔われるべきかと」
北の方がすぐに出家し、維盛の後生菩提を弔ったことは哀れです。
いっぽう、鎌倉の源頼朝も維盛の入水を伝え聞きました。
「あはれ、分け隔てなく顔を合わせていたら、命だけは助けたのに。頼朝が死罪から流罪に減刑されたのも、ひとえに、故池の禅尼の使者として平重盛殿が尽力してくれたおかげだ。重盛殿の形見の御子息たちをも、まったく、おろそかには思っていない。ましてそのように出家されていたのなら、子細には及ばなかった」
頼朝は、そう悔やみました。
(2012年2月2日)
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