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登場人物:平重国、平宗盛
日が過ぎて、都から出た院宣の使者・召次花方の平重国が寿永3年(1184年)2月28日、讃岐の国(香川県)の屋島の浜に到着しました。院宣を取り出し、渡しました。平宗盛以下の卿相雲客が寄り合い、院宣を開けました。院宣には、以下のように書かれていました。
先帝・安徳天皇は宮城を出て、諸州に行幸し、三種の神器が南海、四国に埋もれて数年をへる。朝家の嘆き、亡国のもとなり。
そもそもかの重衡卿は、東大寺焼失の逆臣なり。すべからく、頼朝朝臣の申し出を受け入れて、重衡卿を死罪にすべきといえども、独り親族に別れ、すでに生け捕りの身になっている。
籠に取り込められた鳥が雲を恋う思いは、遥かに千里の南海に浮かび、北国に帰る雁が友を失う心は定めて、屋島の平家の人々を想っていること。
然ればすなわち、三種の神器を都へ返し奉れば、重衡卿の罪を許す。
院宣はかくのごとく、よって、執達はくだんのごとし。
寿永3年(1184年)2月14日、大膳大夫成忠が承わり、先の大納言・平時忠殿へ謹上。
院宣の趣が、平宗盛と平時忠へ伝えられました。重衡の母・二位の尼殿は、重衡の手紙を開けて読みました。「重衡を今生で今一度、ご覧になりたいと思うなら、三種の神器のことをよきようにと伝え、三種の神器を都へ返してください。そうすれば、お目にかかることができます」と書いてありました。
二位の尼殿は、重衡の文を顔に押し当てて、人々のいる後ろの障子を引き開けて、宗盛の前に倒れ伏し、しばらくは、声も出せませんでした。ややあってから起き上がり、涙を抑えて告げました。
「これ見てください、宗盛。都から重衡が言ってきたことの無慚なことよ。たしかに心の内ではいろいろと思っているでしょうが、ただ私に思いを預け、三種の神器のことをよきように申し、都へ返してください」
宗盛は答えました。
「宗盛もそうしたいのはやまやまですが、さしもの我が国の重宝・三種の神器を、重衡一人に替えることは、世の為にもなりません。また、頼朝が伝え聞くことを考えても、無理です」
「そのうえ、安徳天皇が帝位にあることも、ひとえに、内侍所(神器の鏡)がここにあるからです。さて、子どもや一門の親しき者たちを、重衡一人に替えてよいものか。子をかわいく思うことも、場合によります。重衡のことは、ゆめゆめ、かないません」
二位の尼殿は、わらにもすがる思いで、重ねて頼みました。
「私は、清盛殿に先立たれた後は、一日、片時でも命を長らえて生きていたいと思ったことはありません。しかし、幼い安徳天皇が、西海の波の上を漂う心苦しさを思うと、再び栄華の代に戻してやりたく、辛いながらも今日まで生き長らえてきました。重衡が一の谷にて生け捕りにされたと聞いた後は、胸がつまって、湯水ものどを通りません。重衡がこの世にないと聞けば、私も同じ道をたどりますので、再び、何かを言い出す前に、ただ、私を殺してください」
二位の尼殿がさけび、嘆願すると、まことに痛わしく、皆、目を伏せました。
(2012年1月30日)
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