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登場人物:桓武天皇、平清盛、藤原小黒丸、紀古佐美、賢m
そのようにして奈良の都は栄えていましたが、桓武天皇の御宇、延暦3年(784年)10月3日、奈良の京春日の里から、山城の国・長岡に都が遷りました。10年がたった794年の正月、大納言・藤原小黒丸、参議で左大弁・紀古佐美(きの・こさみ)、大僧都・賢m(げんけい)らを遣わして、山城の国の葛野郡宇多村を視察させました。
藤原小黒丸と紀古佐美は共に、「あの地は、形を見ると、天の四方にある星宿の青龍を左に、百虎を右に、朱雀を前に、玄武を後にという、まさに、地形に四相を見る『四神相応』です」と報告しました。
そのため、愛宕郡の賀茂大明神に遷都の由を告げ、延暦13年(794年)11月21日、長岡京から、都を、平安京に遷しました。以来、天皇は32代、星々は380年あまりの歳月を送っています。
昔から、代々の天皇は、各国各地に多くの都を遷しましたが、桓武天皇は「このような勝地はない」と強く思い、大臣・公卿・諸国の諸道に才能のある人らに命じ、長く久しくなるべきしるしとして、土で8尺(約2.4メートル)の人形を作り、黒金の鎧兜を着せ、黒金の弓矢を持たせ、たとえ世が末となろうともこの都を他国へ遷すようなことがあれば守護神となるべしと祈願し、東山の峰に、西向きに立てて埋めました。なので、この塚は天下に大事が起これば必ず共鳴し、そのため、「将軍が塚」(東山、長楽寺の上の山)として今に伝わっています。
この都は、平安城(へいあんじょう)と名づけられました。平ら安き城(みやこ)と書きます。
また、桓武天皇といえば平家の先祖です。先祖である桓武天皇がそこまで執着した平安京から都を、たいした理由もないのに、他国他所へ遷したことはまことにあさましいことです。
先年、嵯峨天皇の時、平城上皇が尚侍(ないしのかみ)藤原薬子の勧めで、平安京から都を遷そうとしましたが、大臣・公卿・諸国の人々が皆反対したので、中止したこともありました。一天の君や、万乗の主さえ、遷すことができなかった平安京を、平清盛は、人臣の身でありながら移しました。恐ろしいことです。
(2011年12月2日)
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