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(352)源義経と梶原景時

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登場人物:源義経、梶原景時、源範頼、湛増

 屋島の戦いに勝利した源義経は、周防の国(山口県東南)に渡り、兄の源範頼と合流しました。平家が長門の国(山口県北西)の引島(下関市・彦島)に着いたといわれたので、源氏は長門の国の追津(下関市・奥津)に行きました。源平両陣が同じ長門の国にたどり着いたことは不思議です。

 紀伊の国の住人に、熊野の別当の湛増という者がいました。平家恩寵の者でしたが、たちまちに心変わりして、平家につこうか、源氏につこうか、迷っていました。そこで、まず、田辺の新熊野神社(闘鶏神社ともいう)に、7日間、参籠し、神楽を奏して、権現へ祈請を立てました。すると「(源氏の)白旗につけ」とのこと。しかしそれでも心が定まらず、白いニワトリ7羽と、赤いニワトリ7羽に権現の前で勝負をさせました。赤いニワトリは1羽も勝たず、皆、負けて、逃げてしまいました。そこでようやく源氏につこうと思い定めました。

 湛増は、一門を引き連れ、2000人、200艘の兵船で、熊野神社の末社・若王子の御神体を船に乗せ、旗の横上に、熊野権現の守護神・金剛童子を描き、壇の浦へ寄せました。源氏も、平氏も皆、それを見て拝みましたが、湛増の船団が源氏についたので、平家は落胆の様子でした。

 また、伊予の住人の四郎・河野通信も150艘の大船で漕ぎ着けました。これも源氏に味方したので、平家の落胆は大きく、源氏の勢力が増え、平家は弱まっていきました。源氏3000艘、平家は1000艘。平家の中には、中国風の大船が少々、交ざっていました。

 元暦2年(1185年)3月24日卯の刻(午前6時)、源平は、豊前の国(福岡県)の田の浦の門司の関と、長門の国(山口県)の壇の浦の赤間が関で、矢合わせ(開戦)と定まりました。

 その日、源義経と梶原景時が同士討ち寸前という事態に陥りました。

 ことの起こりは、景時が義経の前に進み出て、「今日の先陣は、景時に賜りたい」と申し出たことです。義経は、「義経がいなければそうするのだが」と答えました。

 景時が「それはとんでもない。殿は大将軍でありますぞ」と告げると、義経は、「それは思ってもいない。頼朝殿こそ大将軍。義経は、いくさ奉行を承っている身なので、格は貴殿たちと同じだ」と返事をしました。

 そう言われてしまうと、重ねて先陣を所望するわけにはいかず、景時は、「天性のものとして、この殿は、侍の主にはなれない」とつぶやきました。それを聞きつけた義経が、「お前は日本一のバカ者だ」と、太刀の柄に手を掛けました。景時も、「こはいかに。鎌倉殿より外に主を持たない」と、同じく太刀の柄に手を掛けました。

 父・景時の態度を見た嫡子景季、次男景高、三男景家や主従14、5人が、鞘を解いて、ねじり寄りました。いっぽう、義経の様子を見た、伊勢義盛、佐藤忠信、江田源三、熊井太郎、武蔵坊弁慶などの一騎当千の強者どもも、景時を取り囲み、景時を討ち取ろうとしました。

 三浦義澄が義経に取りすがり、土肥実平が景時に組み付きました。「これほどの大事を前に、仲間内での争いが起これば、平家を勢いづかせる。頼朝殿への聞こえもある。収めなされ」となだめましたので、義経は鉾を収め、景時もそれ以上には及びませんでした。このことがあってから、梶原景時は源義経を憎しみ始め、やがて、讒言して死に至らしめたと、後に言われました。

(2012年2月8日)

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