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安徳天皇の乳母は、前右大将・平宗盛の北の方と決められていましたが、去る7月に難産のため亡くなったので、大納言・平時忠の北の方に決まりました。
後白河法皇が精進から帰ってきました。門前に車を止めました。平清盛は、うれしさのあまり、金一千両、富士の綿二千両を、後白河法皇へ寄進しました。「これはまた異例なことだ」と人々はうわさしました。
今回のお産には、尋常ではないことがたくさんありました。まず、後白河法皇が祈祷をしたこと。次に、后お産の折に、御殿の屋根から甑(こしき)を転がす行事がありますが、皇子誕生の際は南へ、皇女誕生の際は北へ落とすところ、北へ落としてしまいました。どういうことだと騒ぎになり、拾い上げて南へ落とし直しました。しかし、それでも不吉なことだとうわさされました。
おかしかったのは平清盛の狼狽ぶり、立派だったのは平重盛の振る舞い。残念なのは、前右大将の平宗盛が最愛の北の方に先立たれて、大納言と大将の両職を辞して、こもってしまっていたこと。兄弟そろっての出仕だったら、どんなにめでたかったことでしょう。
次に、7人の陰陽師が参上して、千度のお祓いをしました。その中に、掃部寮(かもんのかみ)長官の時晴(ときはる)という老人がいました。従者も少なく、あまりに大勢が集まり、タケノコが群がり出たような有り様でしたので、「役人だ。道を開けられよ」と大勢の中を押し分けて入っていきました。そのとき、どうしたことか、右の履物を踏まれて脱げてしまいました。立ち止まっていると、今度は、かぶり物まで落とされてしまいました。これほどの砌(みぎり)に、束帯正しき老人が、髻(もとどり)をあらわにして、揉まれて練り出される姿を見て、若い公卿や殿上人たちはこらえきれずに、一斉にどっと笑いました。陰陽師などというものは、反陪(へんばい)といって、足の一歩にも決まりがあるものといわれています。その他にも、不可思議なことはありましたが、その時は何とも思いませんでした。しかし、後になってみると尋常ではないことが多くありました。
お産のために六波羅へ参上した人々は以下の33名。
藤原基房・関白松殿
藤原師長・太政大臣妙音院
藤原経宗・左大臣大炊御門(おおひのみかど)
藤原兼実・右大臣月輪殿
平重盛
藤原実定・徳大寺大納言左大将
源定房・大納言
実房・三条大納言
邦綱・五条大納言
藤原実国・大納言
源資賢・按察使
宗家・中御門中納言
兼雅・花山院中納言
源雅頼(がらい)・中納言
実綱・権中納言
藤原資長・中納言
平頼盛・池中納言
平時忠・左衛門督
藤原忠親・検非違使別当
実家・左宰相中将
実宗・右宰相中将
通親・新宰相中将
平教盛
家通・六角宰相
頼定・堀川宰相
長方・左大弁宰相
俊経・右大弁三位
成範(しげより)・左兵衛督
光能・右兵衛督
朝方・皇太后宮大夫
修範(ながのり)・左京大夫
親信・太宰大弐
実清・新三位
右大弁のほかは皆、直衣でした。参上しなかった者は、忠雅・花山院前太政大臣、隆季・大宮大納言以下、10余人。後日に、布衣(ほうい)を着て、平清盛の西八条の屋敷に参上したといわれました。
(2011年10月29日)
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