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(76)頼豪、良信の祈祷

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 白河院の在位中、屋敷が土御門京極にあった関白藤原師実の娘が后に立ったことがありました。賢子の中宮といって第一の寵愛を受けました。主上はこの后が皇子を産むことを望み、当時三井寺に有験の僧ありといわれた頼豪阿闍梨(藤原有家の子)を呼び、「お前、この后の御腹に皇子が誕生するよう祈れ。祈願が成就したら、褒美は望みのままに所望せよ」と告げました。

 頼豪は畏まって、承りました。三井寺に帰り、肝胆を砕いて祈ると、中宮はやがて御懐妊となり、承保元年(1074年)12月16日、無事に皇子出産となりました。

 主上はことのほかよろこび、頼豪を内裏に呼び、「さて、お前は何を望むか」と聞きました。頼豪は、受戒の儀式を行う檀場・戒壇(小乗戒壇と大乗戒壇あり)を三井寺に建立したい旨を奏上しました。

 主上は、「官位の順番を飛び越えて僧正になりたいなどと言うと思っていたが、それは思ってもみなかった申し出だ。しかし、皇子が誕生し、皇位を継がせるのも、海内(国内)の無事を願うがゆえである。いまここで、お前の願いを聞き入れたら、山門・比叡山延暦寺が憤慨し、世の中が騒がしくなるだろう。比叡山延暦寺と園城寺三井寺が合戦ともなれば、天台の仏法が滅びてしまうだろう」と告げ、頼豪の願いを聞き入れませんでした。

 頼豪は、「これは悔しいことだ」と急いで三井寺に帰り、断食して死のうとしました。

 主上はたいへん驚き、(当時はまだ美作守だった)太宰権師の大江匡房を呼び出し、「お前は頼豪と師弟の契りがあるので、行ってなだめてみよ」と告げました。大江匡房は畏まって承り、急ぎ三井寺に行き、頼豪阿闍梨の宿坊を訪ね、主上の胸中を聞かせました。

 頼豪は、なんと、護持の本尊を安置する持仏堂に立てこもり、中から恐ろしい声で、「天子にはたわむれの言葉はない。綸言は汗のごとしと承っている。この程度の望みをかなえてもらえないとは。私の祈りで誕生した皇子だ。取り返して魔道へ行ってしまおう」と告げ、ついに対面すらしませんでした。

 大江匡房は禁中へ戻り、そのことを告げました。主上はおおいに嘆きました。頼豪はついに飢え死にしてしまいました。

 そうしているうちに、皇子が病気になり寝込んでしまいました。さまざまな祈祷がなされましたが、いっこうに回復の様子が見えません。白髪の老僧が修験者の杖である錫杖(しゃくじょう)をついて、常に皇子の枕元にたたずんでいるといわれ、夢にみた者もあり、実際に立っていたともいわれました。恐ろしいなどという話ではありません。

 承暦元年(1077年)8月6日、ついに皇子が4歳で亡くなりました。これが、敦文親王(あつぶん)です。

 主上はおおいに嘆きました。当時また、比叡山延暦寺に有験の僧ありといわれた、西京の房に住んでいた天台座主・良信大僧正(その時はまだ、東坂本の円徳院の本坊である円融坊の僧都といわれていましたが)を内裏に呼びました。

 主上が「これはいかがしたものか」と問うと、良信は「皇子誕生の祈願は比叡山延暦寺でこそ成就するのが習い。九条右大臣・藤原師輔公も慈恵(じけい)大僧正・良源に祈祷を命じたからこそ、藤原師輔の娘が産んだ冷泉天皇も誕生しました。たやすいことです」と答えました。

 慈恵大僧正・良源は比叡山延暦寺に帰り、100日の間、肝胆を砕いて祈りました。やがて、100日のうちに中宮ご懐妊となり、承暦3年7月9日、無事に皇子が誕生しました。これが、堀河天皇です。

 怨霊はこのように、昔も恐ろしいことをしていました。今度のさしもめでたきお産には特別な大赦免が行われましたが、かの俊寛は一人、赦免がありませんでした。気の毒なことです。

 同じ治承2年(1178年)12月8日、安徳天皇は東宮・皇太子に立ちました。東宮の補佐役には平重盛、東宮職の長官・大夫には平頼盛が任ぜられました。さる程にその年も暮れ、治承3年(1179年)になりました。

(2011年10月31日)

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