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(100)藤原行隆の沙汰

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 そのころ、参議・藤原為房の孫で、長隆の子である故・中山中納言藤原顕時の長男、先の左少弁・藤原行隆という人がいました。二条院の時代には、弁官(太政官の三等官で、左右、大中小がある。八省の事務を分担し、その文書の受付及び国司の朝集などをとりあつかう)に加わり、とても立派にしていた人ですが、この10余年ばかりは、官職を停止され、夏冬の衣替えもできず、朝晩の食事もままなりませんでした。

 そのように、今にも消え入りそうにしていた藤原行隆に、平清盛が使者を立てて、「立ち寄り下さい。申し伝えることがあります」と伝えました。行隆は、「この10余年は官位を止められ、何事につけても音沙汰がなかったものを、だれが讒言をして、この行隆を亡き者にしようとしているのだ」と、大いに恐れ、騒ぎました。北の方をはじめ女房たちも、声々にわめき騒ぎました。

 そうしている中、西八条から、しきりに使者が来ました。行隆は「ともかく、出向かなければ」と、人に車を借りて西八条へ行きました。

 すると、意外にも、出てきた平清盛は、「あなたの父上は、清盛が何事につけ細々と相談した人だ。あなたはその人の子息なので、おろそかには思っていません。年来、籠居されている境遇をいたわしく思っていました。しかし、後白河法皇が政務を執っているうえは、力が及びませんでした。今は、出仕してください。官職のことも、沙汰を出します。なので、早くお帰りになってください」と言いました。

 行隆が宿所に戻ると、女房・侍たちが集まっていて、死んだ人が生き返ったように迎え、泣いてよろこびました。

 その後、平清盛は、大夫判官・源季貞に命じて、与えた荘園の券状をたくさん遣わし、まず当面の準備にと、絹100斤、金100両に、米を付けて送りました。使用人、牛飼い、牛車に至るまで細々と沙汰しました。

 行隆は非常によろこび、足の踏み場もわからなくなるくらいになり、「これは夢なのだろうか」と驚きました。

 治承3年(1179年)11月17日、行隆は、五位の蔵人に任命され、もとと同じ左少弁に返り咲きました。今年51歳。今は若返ったようです。しかし、それも、片時の栄華のように思えました。

(2011年11月9日)


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