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(77)藤原成経の旅路

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 治承3年(1179年)正月下旬、丹波少将・藤原成経、判官・平康頼の2人は、平教盛の領地であった備前国鹿瀬の庄を発ち、都へと急ぎました。しかし、余寒がいまだ激しく、海もたいへん荒れました。港伝い、島伝いに行路をとり、2月20日ころ、備前の児島に到着しました。

 そこから、成経の父・大納言藤原成親がいた有木の別所という場所へ行ってみました。有木の別所では、竹の柱や、古びたふすまに、書き置きしてあった言葉がすさんでいました。

 成経は、「あはれ亡くなった人の形見には、筆跡に勝るものはない。書き残しておいてくれなかったら、どうして、このように目にすることができるだろう」と、平康頼といっしょに、読んでは泣き、泣いては読みました。

 ある書き置きには、「安元3年(1177年)7月20日出家、同じき26日信俊下向」とありました。これで、左衛門尉の源信俊が来たことが知れます。

 また、そばの壁には、「三尊来迎(阿弥陀如来、観音と勢至の両菩薩の計3尊が来現し浄土に引摂すること)便りあり、九品(弥陀の浄土には、上品、中品、下品にそれぞれ上生、中生、下生の9種の往生があるといわれます)往生疑いなし」とも書かれていました。この筆跡を見ると、「さすがに極楽往生を願う望みがあったのだなあ」と、嘆きは深いのですが、わずかに気を取り直した様子で言いました。

 藤原成親の墓を訪ねると、松が一群れある中、手間をかけて段を造るようなこともありませんでした。成経は、土が少し高くなっている所へ向かって、袖をかき合わせ、生きている人に話を聞かせるように、泣きながら告げるには、「先に備前に流されたことは、島でもかすかに伝え聞いていました。思い通りにならない身でしたので、急ぎ参上することもできませんでした。鬼界が島に流されてからの成経の心細さは、もはや、一日片時も生きながらえそうにありませんでしたが、さすがに露の命といえども終わることなく、この2年を送ってきました。今、都へ召し返されるよろこびはあるのですが、父・藤原成親殿がまさにあの世へ旅立ったことを見届けたら、もう生きながらえる甲斐もありません。これまでは急いでいましたが、今日からは急ぐ必要もありません」

 藤原成親が存命であれば、言葉のひとつもかけたであろうに、生き死にを隔てた間柄となったことほど恨めしいことはありません。『千載集』に『鳥辺山君たづねとも朽ちはてて苔の下にはこたえざらまし』(大江公景)とあるように、苔の下では誰が答えるのでしょう、ただ嵐に騒ぐ松が響いているだけです。

 その夜は、平康頼と2人で、墓の周りで、念仏を唱えながら周りを歩いて巡る法会の儀式である「行道」を行い、夜が明けると、新しい壇を築き、棚を造り、墓の前に仮屋を作り、7日7晩の間念仏し、経を書き、結願として大きな卒塔婆を立て、「過去聖霊、出離生死、証大菩薩」(死者の亡霊が生死の迷いを離れ大菩薩を証得すること、イコール悟りを開くこと)と書き、年月日の下に「考子成経」と書きました。これを見て、山の奥深い所に住み風流に通じていない者たちも、子に勝る宝はないと、袖を濡らさない者はいませんでした。

 年が去り、年が来れども、忘れられないのは、昔日に育てられた恩。まさに夢のごとく、幻のごとくです。また、尽き難いのは、今、流れる恋慕の涙。成経のこの心を、(過去現在未来と、東西南北と、北東北西南東南西の方位の四隅と、上下である、*要するに世界中である)三世十方の仏陀の弟子たちも憐れみ、亡き藤原成親の魂霊も、よろこんだことでしょう。

 藤原成経は、「今しばらく留まって、念仏の功徳を積みたいのですが、都で待っている人たちがさみしい思いをしています。また、来ます」と亡父にいとまを請い、泣く泣く、墓前を離れました。草葉の陰の方でも、さぞかし名残惜しかったことでしょう。

(2011年10月31日)


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