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そのようにしているうちに、建礼門院は、月を重ねるうちに、苦しみを訴えるようになりました。建礼門院が苦しむ様子は、一たび微笑めば百の媚ありといわれた漢の武帝の李夫人・昭陽殿の病床を思わせ、唐の楊貴妃、梨花一枝春の雨を帯び、蓮花の風に萎れながら、女郎花の露重げなるよりも、なお、痛ましき様子でした。
このような苦難の時に合わせて、つよいもののけどもがたくさん、建礼門院に取りつきました。祈祷で憑物を巫子に乗り移らせて、不動明王の索にかけると、霊たちが現れました。特に、讃岐院の御霊、宇治の悪左府の憶念、新大納言・藤原成親の死霊、西光法師の悪霊、鬼界が島の流人の生霊などと名のりました。
それに対し、平清盛は、生霊も、悪霊もなだめよと命じました。
まず、讃岐院には御追号があり崇徳天皇と号しました。
次に、宇治の悪左府・藤原頼長は贈官贈位が行われて太政大臣正一位が贈られました。勅使は、少納言・維基といわれました。藤原頼長の墓は、大和国添上の郡河上の村にあり、東大寺の北御門辺りの般若野という所にありました。保元の乱の時、死体が掘り起こされ、そのまま打ち捨てられていました。それから、死骸は道端のほこりとなり、年が重なるにつれ、ただ春の草だけが茂っていきました。
そこに、勅使・維基が来て、漢文ではなく国語による勅書・宣命を読み上げました。亡魂の御霊はどれほど、よろこんだことでしょう。
それならばということで、皇太子を廃嫡された早良親王を崇道天皇と号し、井上内親王を皇后の位に復活させました。これらは皆、怨霊をなだめるための策といいます。
怨霊は昔もこのように恐ろしいことをしていました。冷泉院が狂ったのも、花山天皇が帝位を退かれたのも、参議・藤原菅根の子である民部卿・藤原元方の霊の仕業といわれました。また、三条院の目が見えなくなったのも、観算供奉の霊のためといわれました。
(2011年10月17日)
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