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清盛をさとした後、平重盛は中門に出て、侍たちに「清盛殿の仰せが出た。あの大納言殿の命を奪うこと、たやすくしてはならないと。入道殿は腹が立つと物騒なことをして、のちに必ず後悔するのだ。はやまってあやまちを犯せば、のちにわが身をうらむことになるぞ」と告げました。武器を携えた軍兵どもは皆、舌を巻いて恐れおののきました。
また、重盛が「今朝、経遠と兼康が大納言殿に無情にあたったのは、返す返すもふとどきだ。どうして、この重盛の耳に入るだろうと思いとどまらなかったのだ。田舎侍どもがふるまいよ」と言うと、難波経遠も、瀬尾兼康も、共に恐れ入りました。平重盛はこのように言い、東山の小松谷にあった屋敷・小松殿へ帰りました。
そうしている間、藤原成親の侍たちが急ぎ中御門烏丸の宿所へ帰り、成親が捕らえられたことを伝えました。北の方以下の女房たちは、声をあげてわめき叫びました。「成親の子・丹波少将成経殿をはじめ、幼い人たちも皆捕らえられると承りました。急ぎ、どこへでも身をお隠しなされませ」と告げると、北の方は、「今、これほどとなっては、あとに残って安住していてもなんになりましょう。ただ、同じ一夜の露と消えることこそ本望です。それにしても、今朝が最後の別れだったとは、なんとも悲しいことでしょう」と、衣を頭からひきかぶって泣き伏しました。
しかし、軍兵が近づきつつあると聞くと、捕らえられて辱められ憂き目をみるのもさすがに嫌だと、10歳になる女の子と、8歳の男の子を同じ車に乗せ、どこへ向かうと命じることもないままに、出発させました。どこへも行かないわけにはいかないので、大宮通りを北へ上り、北山辺りにある雲林院へ入りました。適当な僧坊に北の方と子どもたちを降ろすと、送りの者たちは、わが身かわいさに皆、いとまごいをして帰りました。幼い子どもたちばかりが残り、安否を尋ねる人もいない北の方の心中は、推し量られて哀れです。暮れゆく影を見るにつけても、大納言・藤原成親のはかない命もこの夕べかぎりと思い、消え入る思いをしていたことでしょう。
成親の屋敷には、女房、侍たちが多くいましたが、物をかたづけたり、門を閉じたりした者はいませんでした。また、厩にはたくさんの馬が立ち並んでいましたが、飼い葉をやる者もありません。夜が明ければ馬や車が門の前に立ち並び、賓客が連なり、遊び、たわむれ、舞い、踊っていました。世間をはばかることなどなく、近所の者たちも声高に言うことなく、恐れていた昨日まででした。しかし、一夜の間にこのような有様になるとは、まさに、盛者必衰の理が目の前に現れたようです。『楽しみ尽きて哀しみ来たる』と書かれた、大江朝綱公の筆の跡が、今こそ、思い知られます。
(2011年10月12日)
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