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ミニシアター通信平家物語 > (32)藤原成親の助命

(32)藤原成親の助命

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 平重盛は、藤原成親に、「このように閉じ込めたとしても、命まで奪うことはありますまい。たとえそのようなことになったとしても、このように重盛がおりますので、お命は、この命に代えてお守りいたします。ご安心ください」と告げました。

 重盛は、父・清盛のところへ行き、言いました。

「あの大納言殿を殺してしまうことは、よくよくお考え下さい。藤原成親殿の先祖は修理職の長官である修理大夫・藤原顕季(あきすえ)殿で、顕季殿が白河院に仕えてからこのかた、成親殿は家で前例なき大納言にまで昇進し、当代の後白河法皇から比類ない寵愛を受けています。首をはねてしまうことは、するべきではありません。都の外へ追放するだけで、十分です。

「北野天神・藤原道真公は、藤原時平の讒言によって、西海に流される憂き目に遭いました。西宮・源高明公は、多田満仲の讒言によって、恨みを山陽の雲に寄せることになりました。どちらも無実でしたが、流罪となりました。

「道真公と高明公の流罪はともに、延喜の聖代・醍醐天皇の過ち、安和の御門・冷静天皇の過ちと伝えられています。尊い先代たちでさえも過ちを犯すもので、後の世の者たちはいうまでもありません。賢王にしてなお誤りがあるので、私たち凡人は言うまでもなく、過ちを犯すもの。すでに身柄を拘束しているので、すぐに殺してしまわなくても大丈夫でしょう。『刑の疑わしきは刑を軽くし、功の疑わしきは恩賞を重くしろ』といわれているものです。

「別件ながら、重盛の妻は藤原成親大納言の妹です。息子・維盛(これもり)はまた、婿になります。このような姻戚関係があるので申し上げていると思われるかもしれませんが、決してそうではありません。ただ、朝家のため、国のため、世のため、当家のためを思って言っているのです。わが朝では、嵯峨天皇の保元の時代、故・少納言信西が執権だったときに、右兵衛督(うひょうえのかみ)藤原仲成を死罪としました。このときは、保元までの25代の間、行われていなかった死罪を行い、宇治の悪左府・藤原頼長の死体を掘り起こして実検しましたが、それなどはあまりにむごいまつりごと。古事にも、『死罪を行えば、海内に謀反の輩が絶えなくなる』と伝えています。その言葉のとおり、保元の乱(1156)から2年を置いて、平治の乱(1160)が起き世が乱れ、信西の死体を掘り起こし、首をはねて大路でさらし首にされました。保元に起きたことが、すぐに、身の上に返ってきたと思うと恐ろしいことです。

「藤原成親卿は、頼長、信西のような朝敵ではございませんので、慎みあるべきです。栄華を極めた父上にはもはや思い残すことはございませんでしょうが、子々孫々に至るまでの繁栄こそ望みたいものです。父祖の善悪は必ず子孫に及ぶというもの。『積善の家には余慶あり、積悪の門には余おう留まる』ともいいます。どのようなことがあっても、今夜、成親殿の首をはねるなど、おやめくだされ。

 重盛がそう告げると、平清盛はたしかにそうだと納得したのでしょう、死罪を思いとどまりました。

(2011年10月12日)


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