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安元三年(一一七七年)三月五日に、妙音院殿と呼ばれた藤原師長が内大臣から太政大臣に昇進しました。内大臣には、大納言の源定房を飛び越えて、重盛がなりました。重盛の大臣就任を祝う大宴会が執り行われました。大臣にして大将を兼ねるとはめでたい限りでした。主賓の席には、大炊御門の右大臣である経宗がつきました。本来ならば左大臣こそ主賓に迎えられるべきでしたが、保元の乱のときに、父の宇治の悪左府藤原頼長が左大臣にして謀反を企てた例があったので、左大臣を主賓に迎えることははばかられました。
いっぽう、山門側は、加賀の国司師高の流罪と目代の師経の禁獄をたびたび訴えでました。しかし、いっこうに裁断は下りませんでした。そこで、四月と十一月に行われていた日吉の祭礼をとりやめて、安元三年(一一七七年)四月十三日の辰の初刻(午前八時過ぎ)に、十禅師権現、客人、八王子の三社の神輿を飾り立てて内裏に迫りました。さがり松、きれ堤、賀茂川原、河合、柳原、東北院のあたりは、神人、宮仕、衆徒、奉公僧らで満ち溢れました。飾り立てた神輿は日の光を浴びて輝き、一条通りを西に進むさまは見事でした。朝廷は、源平両家に四方の門を固めて大衆を防ぐよう命じました。
平家では、内大臣で左大将の重盛が三千騎あまりを率いて、大宮おもての陽明門、待賢門、郁芳門を固めます。弟の宗盛、知盛、重衡、伯父の頼盛、教盛、経盛らは西南の門を固めました。源氏では、大内裏を守護する役に就いていた源頼政が、摂津国渡辺党の省(はぶく)、授(さずく)を頭として三百騎あまりで北正面の朔平門を固めました。守る場所は広く、手勢はわずかで、人影はまばらになりました。
大衆は勢いに任せて、頼政が守る縫殿の陣から神輿を内裏に入れようとします。しかし、頼政もさる者でした。馬から飛び降りて、兜を脱ぎます。手を水で洗い清めてから神輿を拝みました。手勢の者たちもみな頼政にならいます。頼政の陣から渡辺党の唱(となう)が使者に立てられました。唱のその日のいでたちは、青色の直垂に、小桜を染め出した上に黄色の鎧を着て、赤銅の太刀をさして、二十四本の白羽の矢を背負い、藤をしげく巻いた弓を小脇に抱えていました。唱は、兜を脱いで高紐にかけます。神輿の前に畏まって「しばらく、お静まりください。源三位殿より、山門の衆に言伝を賜わってきました」と告げます。
「今度の山門の訴えはごもっとも。裁定が遅々として下らぬのは、はた目にも、遺憾なり。神輿を内裏に入れたてまつらんことは当然の沙汰。ただし、頼政はあまりに無勢。頼政の陣から神輿を入れたてまつれば、山門の大衆は頼政の無勢につけこんだと、京童の噂話にもあがりましょう。頼政とて、陣を開けて神輿をお入れすれば、宣旨に背くに似たり。かといって、神輿をさえぎれば、日ごろから薬師如来、日吉権現を崇めてきたわが身は、今日よりは弓を引く身であり続けることはできなくなります。かれといい、これといい、どちらにも決めかねる難題と覚えています。東の陣頭では、小松殿が大勢で固めています。小松殿の陣より神輿を内裏へお入れしては、との言伝でございます」
若い大衆や悪僧どもの中には「かまわずに、この陣を突破してしまえ」と息巻く連中が多くいましたが、老僧の中から三塔である東塔、西塔、横川の中の第一の論客と呼ばれていた豪運が進み出てきました。豪運は摂津の住人で、堅義の口頭試問を遂げた堅者でした。
「申されることもっともなり。神輿をかついで訴訟に至ったからには、大勢の中を破ってこそ後世の聞こえもよい。それにもまして、頼政卿は、清和天皇第六皇子六孫王から連ねる源氏の嫡流にして、弓矢をとってもいまだに不覚を聞いたことがない。およそ武芸に限らずに、歌道にもすぐれたお方である。近衛院が御在位のころ、即興の歌を詠みあう催しで、院が『深山の花』という題を出されたことがあった。一同が考えあぐねていたときに、
深山木(みやまぎ)のその梢とも見えざりし桜は花にあらわれにけり
という名歌を詠い、院のお心に答えたほどの風雅な人物である。そのような人物に、このさいなんで心ない恥辱を与えることができよう。神輿を引き返そうぞ」
豪運が告げると数千の大衆はみな、いちいちもっともと、神輿を内裏の東正面である待賢門に向けました。待賢門では重盛方の武士たちから散々に矢を浴びせられて、十禅師の神輿にも無数の矢が突き刺さりました。神人や宮仕たちが射殺されて、多くの大衆が傷を負います。大衆がわめき叫ぶ声は、俗世の上に広がる梵天にまでも響き渡り、梵天にいる地の神を驚かせたほどでした。大衆は、神輿を内裏の外に置き去りにして、泣く泣く比叡山に帰っていきました。
(2007年6月23日)
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