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(13)藤原師通の母

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 比叡山の大衆にため息をつく白河院の様子が語られたあとに、平家物語の語り手は、比叡山の強訴にまつわるエピソードを紹介しています。

 嘉保二年(一〇九五年)三月二日のことでした。美濃守であった源義綱が美濃の国に新しくできた荘園を没収しようとしたことがありました。比叡山に止住していた円応という修行僧を殺してしまいました。怒った日吉の社司や延暦寺の寺官など都合三十人あまりが、申し状をかかげて山を下りてきました。後二条の関白と言われた藤原師通は、中務権少輔だった大和源氏の源頼春に命じてこれを防がせました。源頼春の郎党が放った矢は、八人の衆徒を射殺しました。矢傷を負ったものは十人あまりになります。社司や寺官たちは散り散りになって逃げてゆきました。この事件を問いただすために比叡山から高僧らを筆頭にしておびただしい数の大衆が都に降りてくると噂が流れました。朝廷は、武士や検非違使を西坂本に派遣して追い返しました。訴えが聞き入れられないでいるあいだに、比叡山の大衆は、日吉の神輿を比叡山の東塔の一条止観院に振りあげて、日吉の神輿の前で、大般若経の全巻を七日間にわたり通読し、関白藤原師通を呪詛しました。法会の最終日の導師には、(そのときはまだ仲胤(ちゅういん)供奉と言われた)仲胤法印が高座にのぼって鐘を打ち鳴らしました。仲胤法印は「われらが幼い日よりうやまい奉る神々よ、後二条の関白殿に、鏑矢一つ放ちあて給え。大八王子大権現」と高らかに誓詞をあげました。すると、その夜に不思議なことが起きました。八王子の御殿から鏑矢の音が聞こえて、内裏に向かって鳴り響いていくのを夢に見た者がいました。翌朝に、藤原師通の御所の格子戸が開けられると、「しきみ」という毒の実をつける枝が一つ立てられていました。「しきみ」は、山から取ってきたばかりのように露に濡れていたそうです。その夜から、藤原師通は比叡山の鎮守である日吉権現の咎めにあったのでしょうか、重態になって寝込んでしまいました。

 藤原師通の母君は大いに嘆き悲しみました。卑しい者に姿を変えて日吉の社に参詣し七日七晩の間じゅう祈りをあげました。表だった顔立てとしては、芝田楽を百番、人形芝居を百番、競馬、流鏑馬、相撲もおのおの百番をとらせます。仁王講を百座、薬師講を百座、小さな薬師像を百体、等身大の薬師像を一体、ならびに、釈迦、阿弥陀の像をそれぞれ造立して供養しました。また、心の中には三つの誓詞をたてていました。三つの誓詞は、藤原師通の母君が心の中だけで立てていたもので誰にも漏らしてはいませんでした。しかるに、また不思議なことが起こりました。七日目の夜に、八王子の社にいくらもいる参人のなかに陸奥国からはるばるのぼってきていた童の巫女がいました。その巫女が夜半になって、突然、気絶してしまいました。離れた所に運んで手当てをすると、やがて、巫女は立ち上がり舞いはじめました。みな奇妙に思って見入っていました。半刻ばかり舞い続けると、巫女に日吉権現がのり移って、さまざまな宣託を口にしはじめました。

「衆生ら、たしかに承れ。大殿の北政所は、今日で七日間、わが前にこもり続けた。立願は三つあり。一つには、わが子の命をお助けくだされば、大比叡明神に参籠するもろもろの人々に混じって一千日のあいだ、朝夕に宮仕えをなさんと。大殿の北政所としてなに不自由なく過ごしてきたにもかかわらず、子を思う心に迷い、あさましげなる下人どもに混じって一千日のあいだ朝夕に宮仕えをなさんと申す心こそ、まことに哀れに思し召せ。二つ目には、大宮の波止土濃(はしどの)から八王子の社まで回廊を建立いたすと。三千人の大衆が、晴れの日も雨の日も参拝に苦労しているゆえに、回廊ができればさぞかしめでたいこと。三つ目には、御社にて、法華問答講を、一日も怠ることなく毎日続けるという。この立願は、どれもおろそかならねども、前の二つはともかく、最後の法華問答講だけは、たしかに続けるべきものよ。ただし、今後の訴訟は、たいして難しいことでもないのに、御裁許がいっこうになく、神人や社僧が射殺され、多くの衆徒が傷を負って、泣く泣く参りて訴えるのが心憂い。されば、いつの世になっても忘れようとは思わない。その上、彼らが受けた矢は、すなわち和光垂迹の神の化身が受けた矢に間違いがない。空言と思うならばこれを見よ」

 日吉権現がのり移った巫女が肩をはだけると、左の脇の下に、大きなかわらけの口ほどもある肉が削り取られた跡がありました。「この傷があまりに痛むので、如何に立願しようが、いつまでもというわけにはいかぬ。法華問答講を怠りなく続けるならば、三年の寿命を延ばしてやろう。それを不足と思うならば、それ以上はいたしかたない」と告げます。その後、日吉権現は、巫女の体から離れていきました。

 藤原師通の母君は心に立てた誓願を誰にも告げていなかったので、人が知るわけはなく、日吉権現の宣託であったと疑いませんでした。心に願った宣託をそのまま聞くことができたので、ますます心胆に染み入り、宣託を尊く思いました。藤原師通の母君は「たとえ一日や半刻でもありがたいことなのに、ましてや、三年も命を延ばしていただけると聞き、まことにかたじけない限り」と、涙を浮かべて山を去っていきました。その後、紀伊国の所領にあった田中の庄を、永代、八王子の社へ寄進しました。このようなことがあったので、今に至るまで、八王子の社では、法華問答講が、毎日、怠りなく続けられているそうです。

 そうするうちに藤原師通は病が軽くなり、もとの生活ができるようになりました。みな喜び合っている程に、三年の月日は夢のように過ぎて永長二年(一〇九七年)になりました。六月二十一日に、藤原師通は、髪のきわに悪性の腫瘍ができて床に伏しました。同じ月の二十七日には、三十八歳の生涯を閉じます。心が強く、理を重んじた気のしっかりとした人でしたが、いまわの際では、命を惜しみました。四十にも満たないで父の大殿に先立ったことこそまことに悲しいことでした。必ずしも父親が先に死ななければならないということはありませんが、生死の定めに従うのが世の常で、仏や徳の高い大士たちでもどうすることもできませんでした。慈悲に厚い日吉権現は人々に利益を与えますが、場合によっては、人々を咎めることもあるようです。

(2007年6月23日)

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