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ミニシアター通信平家物語 > (11)師光(西光法師)、師高、師経

(11)師光(西光法師)、師高、師経

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 鹿谷の宴会のエピソードを利用して反平家勢力が紹介されました。続いて、傲慢な振る舞いが目立つ北面の武士が加賀でもめごとを起こしたエピソードが語られます。もめごとは、あとで語られるように、寺院勢力を巻き込んだ中央での政治闘争に発展していきます。

 北面の武士のなかに、師光(もろみつ)、成影(なりかげ)という者がいました。故少納言の信西入道に召し使われていた者です。師光は阿波国の役人で、成影は京の者でしたが素性の卑しい下郎でした。もとは倉の警護や下っ端の武士などをしていましたが、気の利くところがあって、このごろでは院に召し使われるようになっていました。師光は左衛門尉(さえもんのじょう)、成影は右衛門尉(うえもんのじょう)に任官されて、二人一緒に衛門府の靫負尉(ゆきえのじょう)にまでなりました。平治の乱で信西が殺されたときに二人とも出家しました。出家したのちも左衛門入道西光、右衛門尉入道西景と名のり、院の御倉預の官についていました。この西光の子に師高という者がありました。師高も切れ者で、検非違使、五位尉にまで昇進して、終には、安元元年(一一七五年)十二月二十九日の除目では加賀守に任命されました。国務を行うあいだに、非法非礼を繰り返します。神社仏閣や権門勢家の荘園を勝手に没収したりしてやりたい放題のありさまでした。たとえ周の召公には及ばないとしても、穏便にまつりごとを行うべきなのに、心のおもむくままの振る舞いを重ねました。翌年の夏には、師高は弟の近藤師経を加賀の国の目代に任命しました。目代とは、国司の代理として現地に赴任して政務をとる役職です。

 師経が赴任するときに、加賀の国府の近くにある鵜川(うがわ)という山寺を通りかかりました。ちょうど寺の僧たちが沸かした湯を浴びているところでした。師経は、乗り込んでいって、僧たちを追い出してしまいました。湯浴みをして、下僕たちを馬からおろして、馬を洗わせたりしました。僧たちは怒りをあらわにして「昔よりここには国司方の者が立ち入ることがなかった。先例に従い、すみやかに立ち去られたし」と申し出ました。師経は血相を変えて「先代の目代たちはみなふがいないものよ。自分はそんなことは知らない。ただ法権に従うまでだ」と言いはじめました。僧たちは師経らを追い出そうとして、師経らは望むところと寺の中にまで乱入しようとする有り様でした。押し合い張り合いしているうちに、師経の秘蔵の馬の足を折ってしまいました。もう手が付けられなくなって、互いに弓をしぼり剣を抜いての戦になりました。数刻のあいだ争い、夜になると、師経方はかなわじと思ったのかひいて行きました。その後、師経が国府の武士ら一千人余りを召集して、鵜川に押し寄せました。坊社を一宇も残さずにみな焼き払ってしまいました。

 この鵜川というのは、加賀白山の妙理権現の末寺でした。智釈、学明、宝台坊、正智、学音、土佐阿闇利らの老臣たちが訴えて、白山三社八院の衆徒二千余人が一同に馳せ参じます。七月九日の暮れ方に目代師経の館の近くまで押し寄せました。衆徒たちは、すでに日が暮れていたので、いくさは明日と定めてその場に留まりました。露を降ろすといわれる秋風が吹くと僧兵たちの袖が翻ります。稲妻が走れば僧兵たちの兜が夜星のごとくに輝きます。師経はかなわじと思ったのでしょうか夜逃げして都に落ちました。翌朝の卯の刻(六時)に、僧兵たちは館に押し寄せてときの声をあげました。しかし、国府の館は静まり返っています。人を入れて探らせるともぬけの殻でした。衆徒たちはいたしかたなく引きあげました。

 加賀の大衆は、かくなるうえは比叡山延暦寺に訴え出ようと、白山中宮の神輿を飾りたてて比叡山に向かいはじめました。八月十二日の正午のころ、白山中宮の神輿は既に比叡山の東坂本に到着すると、北国のほうから雷がおびただしく鳴り響き都のほうへと雷鳴して行きました。それとともに白雪が降りだして、比叡山上も都も、常盤の山のこずえまで一面の雪景色となりました。

(2007年6月23日)



(12)加茂川の水、双六の賽、山法師

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