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(5)藤原公能の娘

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 祇王と仏御前の物語が語られたあと、平家物語では「二代后二代后(にだいのきさき)」の物語が語られます。こちらも、はかない物語です。

 古来より、源氏と平氏はともに朝廷に仕えてきました。両氏とも互いに朝廷に従わない者や朝廷を軽んずる者たちを懲らしめてきました。そのために世に乱れはありませんでした。

 保元の乱で源為義が切られました。平治の乱では源義朝が誅せられます。源氏の一族は、ある者は流されて、ある者は姿を見なくなり、今は平家一門だけが繁栄しています。この様子なら、いつまでも世は平安を保つだろうと思われました。

 しかし、鳥羽上皇が崩御してからは、兵乱が続きます。死罪、流刑、罷免、官職の停止などが常に行われて世が落ち着きません。とくに、永暦、応保のころ(1160−1163年)からは、二条天皇が後白河上皇の側近の者をとがめたり、その逆が行われたりして、みな不安におののいていました。二条天皇と後白河上皇の間には隔てがあるわけではないのに、思ってもみないことがたくさん起きました。平家物語の語り手は、これも世の末になって人々が悪事に走ったためだと感慨していました。

鳥羽天皇
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  ― 後白河天皇 ― 二条天皇 ― 六条天皇
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  ― 近衛天皇
      |
     太皇太后宮 

 二条天皇が後白河上皇の言いつけを押し返すなかに、ことに人々を驚かして世を騒がせた事件がありました。

 故近衛上皇の后で太皇太后宮(たいこうたいこうぐう)という人がいました。大炊御門(おおいのみかど)の右大臣である藤原公能(きんよし)の娘でした。

 太皇太后宮は、近衛上皇に先立たれてからは、宮中を出て近衛河原の御所に移り住んでいました。喪に伏すような生活をしていたようです。22、3歳で、女の盛りは少し過ぎていたようですが天下第一の美人と言われました。

 そのうわさを聞きつけた二条天皇は艶書を送りました。太皇太后宮は返事をしませんでしたが、二条天皇は思いを募らせて、右大臣家に入内の宣旨を出してしまいました。

 尋常ではないことなので公卿たちが詮議して意見を交わします。「異朝では、唐の太宗の后であった則天皇后が、太宗が死んだのちに、継子の高宗の后に立った例はありますが、それはあくまでも異朝でのことです。わが朝では神武天皇から七十余代に至るまで二代の后に立った例はありません」と、皆訴えました。後白河上皇も二条天皇に思いとどまるように言いました。しかし、二条天皇は我を通して、入内の日取りを宣下してしまいました。そうなってしまうと後白河上皇もなす術がありません。

 太皇太后宮は涙に沈みます。近衛天皇が十七歳で死んだときに、共に野原の露と消えるか、出家していれば、「このようなことはなかったのに」となげきました。父親の藤原公能が「既に詔命を下さる。子細を申す所なし。ただすみやかに参らせ給ふべきなり」と太皇太后宮を説得します。皇子誕生のあかつきにはお前は国母になり自分は外祖になる。ひとえに愚老を助ける孝行にもなるぞと太皇太后宮に言い聞かせます。太皇太后宮は返事をしませんでした。

 そのころ何かの手習いのついでに、太皇太后宮は

うき節に沈みもやらで河竹の世にためしなき名をや流さむ

 と詠みました。それが世にもれて、人々はあわれで優しいことと語り合いました。

 入内の日になっても太皇太后宮は重い腰をあげようとしません。父や側近たちは飾り立てた車を用意しましたが、太皇太后宮が車に助け乗せられたのは小夜もなかばを過ぎたころでした。

 入内ののちは、太皇太后宮は、麗景殿という後宮の御所に住みました。二条天皇には、ひたすらに政務に励むようにすすめます。御所には、中国の賢帝を描いた障子や動物や風景を描いた障子など、さまざまな絵があったようです。清涼殿の障子には、昔、巨勢金岡(こせのかなおか)が描いた遠山の有明の月もありました。故近衛上皇が幼年だったときにいたずら書きをして有明の月をくもらせた様子がそのままに残されていたようです。太皇太后宮は故人を恋しく思ったのでしょうか、

思ひきや憂き身ながらにめぐり来て同じ雲居の月を見むとは

 と詠みました。平家物語の語り手は、近衛上皇と太皇太后宮の在りし日のむつまじさがうかがえて忍ぶに耐えないと感慨していました。

(2007年4月17日)


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平家物語のあらすじと登場人物






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