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登場人物:後白河法皇、建礼門院、高階通憲(信西)の娘・阿波内侍
大原の奥に暮らす建礼門院を後白河法皇が尋ねました。庵室は留守でしたが、やがて、建礼門院が岩道を伝って降りてきましたが、途中で立ちすくんでいました。
建礼門院を迎えにいった阿波内侍の尼が、「世を厭うのは習いです。何も苦しいことはございません。早々にご面会になり、おいとましていただきましょう」と誘ったので、建礼門院は涙を抑えて庵室に入りました。
建礼門院は、後白河法皇に、「一念を唱えては阿弥陀如来の光明を期待し、十念を唱えては聖衆の来迎を待っているところに、思ってもいないあなた様の御御幸です」とあいさつしました。
後白河法皇は建礼門院の姿を見て、口を開きました。
「悲想天の寿命は八万劫ですが、なお生者必衰の憂えに遭い、欲界の六天はいまだ五衰の悲しみを免れません。帝釈天の居城の勝妙楽、梵天王の居城の高台閣、夢の裏の果報もまた、幻の間の楽しみで、流転無窮です。車輪が回るのと同じです。天人の五衰の悲しみは人間にもあるものかな。それにしても、懇意の人が訪ねて来て、積もる話などをするにつけても、昔を思い出すことでしょう」
建礼門院は答えました。
「どこからも人が来ることはありません。信隆、隆房の北の方から、たまに便りがあるくらいです。かつては、この2人の世話になろうとは、思いもよらなかったものを」
そう告げて、建礼門院は涙を流し、つき従っていた女房たちも皆、袖を濡らしました。
少しして、建礼門院が涙を抑えて告げました。
「今、このような身になり、一時の嘆きは言葉では表せませんが、後生菩提の為にはよろこびと覚えるようになりました。釈迦の弟子に名を連ね、弥陀の本願に乗じ、女人の身に起こる五障と、女の守る道である三従(父に従い、夫に従い、子に従う)の苦しみから逃れ、昼夜の3時に、六根(眼耳鼻舌身意)を清め、ただ極楽往生を願い、ひたすら一門の菩提を祈り、常に聖従の来迎を待っています。されど、いつまでも忘れがたいのは、安徳天皇の面影です。忘れようとしても忘れられず、忍ぼうとしても忍ばれません。ただ、恩愛の道ほど悲しいことはありません。なので、安徳天皇の菩提のために、朝夕の勤めを怠りません。これも、仏の道と思っています」
後白河法皇が、口を開きました。
「わが国は、辺境にある粟粒のように小さな国だが、あなたは、かたじけなくも十善の帝王(天皇)の母となり、万丈の主となり、何一つ心にかなわないことはない身となりました。そのうえ、仏法の世に生まれ、仏道修行の志があれば、後生の極楽往生は疑いありません。人間の身がはかないのは習い。今更驚くことはありませんが、あなたの有り様を見るに、やるせなく思います」
そう告げて、後白河法皇は涙を流しました。
建礼門院が重ねて口を開きました。
「わが身は平清盛の娘に生まれ、安徳天皇の国母になりましたので、国中が思うがままでした。なので元旦の朝賀の始めから、4月の衣替え、12月の清涼殿の法要で、摂政関白以下の大臣・公卿にもてなされ、六欲天と欲界の上にある四禅天の雲の上で、八万の諸天に会うように、百官からことごとく仰がれました」
「清涼殿、紫宸殿の床の上で、玉の御簾の内に入り、春は南殿の桜に心をときめかせながら暮らし、夏の暑い日は、泉を手にくんで心を慰め、秋は雲の上の月を一人で眺める暇もなく宴会が催され、冬の寒き夜は着物を重ねて暖をとりました。長寿不老の術を願い、蓬莱不死の薬を求め、ひたすら長生きばかりを祈っていました。明けても、暮れても、楽しみばかりが栄え、天上の果報もこれには勝るまいと思うほどでした」
(2012年2月16日)
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