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(372)平重衡の最期

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登場人物:平重衡、木工右馬允知時、大納言佐殿、俊乗坊

 南都を焼き、興福寺や東大寺を焼いた平重衡は、奈良の大衆に引き渡されました。南都の大衆は、重衡をどうするか、詮議しました。

「そもそも重衡卿は、大罪を犯した悪人で、あらゆる悪に染まり、その報いを受けるときが来た。仏敵、法敵の逆臣なので、東大寺と興福寺の大垣のまわりを隅々まで引き回し、生きながら穴に埋めて首をはねるか、また、のこぎりで首を引くかするべきだ」

 中には、そのような声もありました。しかし、結局は、老僧たちの「それも僧徒としてはどうかと思う。ただ武士に引き渡して、木津(相良郡木津町、重衡の首荒いの井戸と墓がある)の辺りで切らすのがよいだろう」という意見にまとまり、武士へ引き渡されました。武士は重衡の身柄を受け取り、木津川の端で、すぐに切る準備をしたところ、数千人の大衆、守護の武士、見物人が数え切れないほど訪れました。

 重衡に年来仕えていた侍に、木工右馬允知時という者がいました。八条の女院(鳥羽天皇皇女)にも顔を知られた者ですが、重衡の最期を見届けようと、都からムチを打って駆けつけました。すでに切らんとするところに到着し、急ぎ馬から飛び降り、人々をかき分けて、重衡の側に寄りました。

「知時が最期を見届けるために参りました」

 そう告げると、重衡は、「志のほど、まことに神妙なり。いかに知時、あまりに罪深く思えるので、最後に仏を拝み、切られたいと思うが、何とかならぬか」と告げました。知時は、「お安い御用です」と答え、守護の武士に話をして、近くの里から、仏を一体、迎えました。

 迎えた仏は、幸いに阿弥陀如来でした。河原の砂の上に据えました。知時が着ていた狩衣のくくりひもを解き、片方を阿弥陀如来の手にかけ、もう片方を重衡に持たせました。

 重衡は、阿弥陀如来に告げました。

「伝え聞きます。調婆達多は三逆を犯し、無量の法門を蔵する経典を焼き滅ぼしてもなお、釈迦から来世で天王如来になるといわれ、行った罪業はまことに深いといえども、そのことが仏道に入るきっかけとなり、尊い教えに導かれ、かえって得道の往生を遂げたといいます」

「重衡が犯した罪は、まったくわたくしの本意ではありません。ただ、世の理に従ったまで。この世に生を受けた者で、誰が王命を断ることができましょう。この世に生きる者で、父の命に背くことができる者がいるでしょうか。勅命も、父の命も、辞退することができません」

「仏のご照覧あるところ、罪業はたちまち報いとなり、わが運命はすでに今を限りとなりました。千万の後悔は、悲しんでもなお余りあります」

「ただし、三宝(法仏僧、つまり仏の世界)の境界は、慈悲心をもって心とするゆえに、衆生を救い仏果の彼岸に渡す機縁はいろいろあります。唯円教意(天台宗)、逆即是順の経文のごとく、一度、念仏を唱えれば無量の罪が消滅し、願わくは、重衡の悪業の逆縁を、順縁に変えて、ただ今の最後の念仏によって、極楽往生を遂げさせてください」

 重衡は、首を伸ばし、切られました。

 重衡が犯した罪は重いのですが、数千人の大衆も、守護の武士も皆、涙を流しました。重衡の首は般若寺の門の前に釘付けにされました。これは去る治承の合戦の折、重衡がここに立って伽藍を焼いたからといわれました。

 重衡の北の方の大納言佐殿は、重衡の死を聞き、たとえ首は切られるとも、むくろはきっと捨て置かれているに違いないので引き取って供養したいと、輿を迎えに出しました。案の定、むくろは河原に捨て置かれていました。輿に載せて、日野へ運びました。昨日までは、ゆゆしげな姿でしたが、このように暑い時分なので、いつしか、むくろは、ひどい姿に変わっていました。重衡のむくろを待ち受けて、目にした大納言佐殿の心の内が推し量られて哀れです。

 さらされていた重衡の首は、法然上人の弟子で東大寺再建にあたった大勧進の俊乗坊が大衆に乞い受け、日野へ送りました。近くの法界寺という山寺で、首とむくろを火葬し、骨を高野山へ送り、墓は日野に建てました。大納言佐殿がすぐに出家して、重衡の後生菩提を弔ったことは哀れです。

(2012年2月10日)


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