参照回数:
登場人物:源頼朝、平宗盛、平清宗、比企義員、源義経、梶原景時
源頼朝が、平宗盛に対面しました。宗盛は庭にいて、頼朝は正面の屋内に座り、御簾の中から宗盛を見て、比企義員を通して、言葉を伝えました。
「そもそも頼朝は、平家をわたくしの敵とは思っていない。それは、頼朝とて、平清盛殿の恩赦がなければ助からなかった身。清盛殿のお赦しがあったからこそ、20年あまり、生き延びることができた」
「しかし、平家が朝敵となり、急ぎ追討せよとの院宣を賜ったので、王家の国に生まれ詔命に背くわけにはいかないので、宗盛殿をここへ迎えた次第。しかしながら、このようにお会いするとは、返す返すも、本懐のいたりです」
比企義員が頼朝の言葉を伝えるために宗盛の前に行くと、宗盛が居住まいを正し、畏まりました。返す返すも、見苦しいことです。居並ぶ諸国の大名・小名の中には京都の者がたくさんいて、また、平家の家人だった者もいました。皆、宗盛を軽蔑しました。
「ああ、みっともない。そんな心構えだからこそ、このような目にも遭うのだ。居住まいを正して畏まったところで、今更、命が助かるわけがない。西国で死ぬべきだった人が、生け捕りにされて、ここまで連れてこられるのも道理だ」
誰かがそう口にすると、「そうだ」という者もあり、また、涙を流す者も多くいました。その中の一人が口にしました。
「『猛虎、深山にある時は、すはわち百獣震(ふる)ひ怖づ。檻穽(かんせい)の中にある時は、すなわち尾を振って食を索(もと)む』といって、猛き虎が深い山の中にいる時は、百の獣が恐れおののくが、捕まって檻に入れられたら、人に尻尾を振る。いかに猛き大将軍も運が尽きてしまったら心が変わるのが習い。この宗盛殿も、同じだろう」
そう告げた人もいたとか。
いっぽう、腰越に追い返されて大江広元に陳述の腰越状を送っていた源義経は、さんざんに陳述していましたが、梶原景時の讒言があったうえは、頼朝は聞く耳を持ちませんでした。
義経は、宗盛・清宗の親子を連れてすぐに上京するよう命じられ、元暦2年(1185年)6月9日、宗盛親子を受け取り、都へ出発しました。
宗盛が、一日でも命を長らえることをよろこんだことは不憫ですが、宗盛は道中でも、「ここで殺されるのか、ここで首をはねられるのか」と思っていました。しかし、国々の宿をどんどん過ぎて、尾張の国の内海という所に来ました。宗盛は、「ここは平治の乱の際、源義朝が首を切られた場所。されば、ここで切られるに違いない」と思いましたが、内海も過ぎました。宗盛が「さては、わが命が助かるのかもしれないぞ」と思ったことは空しいことです。
息子の清宗は宗盛のようには考えず、「このように暑ければ、首が腐らないように、都近くなってから切られるに違いない」と考えていました。しかし、宗盛がなげく様子があまりに痛わしいので、そのことは口にせず、ひたすら念仏だけを勧めました。
(2012年2月10日)
〒144-0035
東京都大田区南蒲田2-14-16-202
TEL.03-5710-1903
FAX.03-4496-4960
→ about us (問い合わせ)