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登場人物:源義経、大江広元
金沢洗の関所で、平宗盛・清宗父子を引き渡したあと、腰越に追い返された源義経は、大江広元へ書状を書きました。
義経が恐れながら申し上げます趣旨は、義経は、頼朝殿の代官の一人に選ばれ、勅撰の使いとして朝敵を平らげ、源氏の会稽の恥を注ぎました。
義経に恩賞が行われるところ、思ってもいなかった恐るべき讒言により、莫大な勲功をなくされました。義経は、犯した罪なくして、とがをこうむります。
義経には功があって誤りがないのですが、勘気をこうむりましたので、空しく紅涙に沈みました。
讒言の実否をたださず、鎌倉へすら入れないため、本意を述べるにも及びません。いたずらに数日を送りました。今このときに至っても、長く頼朝殿の顔を拝見していない。
親子兄弟の義はすでに絶え、前世からの果報も尽きたのか。または、前世の罪業の報いか。
悲しきかな、亡き父の亡魂が現れないかぎり、誰が義経の悲嘆を聞いてくれようか。だれか、哀憐の情を差し向けてくれないのか。
ことを新たに申せば回述になりますが、義経は父母から身体を得て、いくらもしないうちに、亡父源義朝殿が他界したため、孤児(みなしご)となって、母・常盤御前の懐に抱かれ、大和の国の宇陀郡に赴いてからこの方、一日も安堵したことがありません。
甲斐なき命は長らえてきたとはいえども、京都を廻っていたころは苦難が続いたため、身をここかしこに隠し、辺境の遠国を棲家とし、農民・漁民らに使われました。
しかし、かねてからの誓願を熟知し、平家追討のために上洛する手始めに、まず、木曽の源義仲を滅ぼし、平家を攻めました。あるときは険しい岩山の中で馬のムチを打ち、敵のために命を落とすこともいとわず、あるときは、大海の波風をしのぎ、身を海底に沈めることもいとわず、しかばねが鯨のエサになることも覚悟しました。
しかしそれは、甲冑を枕にし、弓矢を取る者の本意。そのうえ、亡き父の憤りを鎮め、源氏の年来の宿望を遂げようとすること以外に考えることはありませんでした。
なので、義経を五位尉に叙したことは、源氏の重職として当然のことですが、しかし、今の義経は深く憂え、切に嘆いています。もはや、神仏の助けなくして訴えを聞き入れてもらう手段はなく、したがって、諸寺諸社の護符の裏にまったく野心を持たないことを記し、日本国中の神社仏閣に奉納しました。なおもって、お許しがありません。
そもそも、わが国は神国です。神は非礼を受けず、頼むところはただ、貴殿の広大な慈悲を賜り、便宜をはかり、頼朝殿に伝え、秘計をめぐらせて、義経にあやまりなきゆえを伝え、お許しをいただきたい。成功の暁には、積善の余慶が貴殿の家に及び、長く栄華を子孫に伝え、義経年来の悲願であった終の安寧を得ることができます。
書紙では言い尽くすことはできませんが、すべてを書くことはせず、省略いたします。
義経、恐惶謹言。
元暦2年(1185年)6月5日
源義経進上
因幡守(大江広元)殿へ
(2012年2月10日)
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