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(366)梶原景時の讒言

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登場人物:源義経、源頼朝、梶原景時、大江広元、平宗盛

 元暦2年(1185年)5月7日、源義経は平宗盛・清宗父子を引き連れて、都を出発しました。粟田口にかかると、皇居はすでに雲のかなたとなり、平宗盛は、関の清水(逢坂の関にあった湧水)を見て、泣く、泣く、詠みました。

  都をば今日を限りの関水に

    またあう坂の影やうつさん

 平宗盛は道中でも心細げにしましたので、情けのある義経がさんざんに慰めました。宗盛が「ああ、いかにしても、命ばかりは助けてくれ」と頼むと、義経は、「重罪だからといっても、命を失うことまでは、まさかないでしょう。例え死罪になったとしても、義経が今度の恩賞に替えて、命だけはお助けします。しかし、遠国や、はるかな島へ流されることはいかようにもできません」と答えました。宗盛が「たとえ、蝦夷の住む千島なりとも、命さえあれば」と言ったことは、見苦しいことです。

 日数がたち、5月22日、義経が鎌倉へ到着することが伝えられました。すると、義経が来る前に、梶原景時が、頼朝に告げました。

「今は日本国が残らず、従っています。しかし、なお、源義経殿こそが最後の敵と思われます」

「その理由は、万もありますが一例を挙げると、義経殿が『自分が一の谷の山の上から軍勢を落とさなければ、東西の木戸口が破れることはなかった。なので、生け捕りも、死に捕りも、まず義経にこそ見せるべきなのに、ものの役にもたたない範頼殿の見参に入れるということがあってよいものか。重衡殿を、急ぎここに連れてこい。そうしなければ、義経自ら出向いて、奪い取ってくるぞ』と口にし、あと一歩で大事に至るというところまで行きましたが、景時がよくはからい、土肥実平と協力して、重衡殿を土肥実平の元に預けおいたので、騒動にはいたりませんでした」

 梶原景時がそう告げると、頼朝は大いにうなずき、「義経が今日ここへ入る。各々、用意せよ」と命じました。大名・小名が馳せ集まり、すぐに数千騎の軍勢になりました。

 頼朝は軍勢を7重、8重に配置し、自分は軍勢の中に入り、「義経はすばしこい男なので、この畳の下からでも這い出してくるかもしれない。しかし、頼朝はそんなことはさせない」と告げました。

 源頼朝は、金沢洗(七里が浜の行合川の西岸の辺りという)に関所を作り、そこで平宗盛・清宗父子を受け取り、義経を、腰越(七里が浜の西端、宿駅があった。現在の鎌倉市内)へ追い返しました。

 義経は、つぶやきました。

「これはどうしたことだ。去年の春に源義仲を追討してからこの方、今年の春には平家をことごとく滅ぼし、内侍所(鏡)、神璽の箱(勾玉)を取り戻し、都へ返した。そのうえ、平宗盛殿父子を生け捕りにして、ここまで下ってきたというのに、例えどのような不都合があったとしても、一度は対面するべきだ」

「おそらくは、九州の総追捕使にも叙され、山陰、山陽、南海道のいずれかなりとも預けられ、一方の固めにもなされるだろうと思っていたが、そうではなく、わずかに伊予の国を与えられ、鎌倉の中にすら入れずに、腰越へ追い返すとはどういうことだ」

「およそ、日本国中を鎮めたのは、義仲・義経の所業だ。たとえ同じ父の子でも、先に生まれたほうを兄とし、後から生まれたほうを弟としたにすぎない。天下を治めるのに不都合はない。やましいところがないので、わびようもない」

 そうつぶやきましたがどうにかなるわけではなく、義経は、泣く、泣く、一通の書状を書いて、大江広元へ送りました。

(2012年2月10日)


(367)腰越状

(368)平清宗

(369)平宗盛の最期


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