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(297)平教経の四国攻め

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登場人物:平通盛、平教経、沼田次郎、河野通信、讃岐七郎義範、安摩忠景、平教経、園辺忠康、臼杵惟隆、緒方惟義

 平教盛が福原へ戻った後、教盛の子息で兄の平通盛は阿波の国の花園城へ着き、弟の平教経は讃岐の国の屋島に到着しました。

 通盛・教経兄弟が平家に反旗を翻した者たちを追っていることが伝えられると、伊予の国の住人の四郎・河野通信は、安芸の国の沼田次郎が母方の伯父なので、協力しようと、安芸の国へ渡りました。そのことを聞いた教経は屋島を出て追いました。その日は、備後の国の簑島という場所に着き、次の日に、沼田次郎と河野通盛が立てこもる沼田城へ攻め寄せました。

 教経にさんざん攻められた沼田次郎はかなわないと思ったのでしょう、甲を脱ぎ、弓の弦を外して、降参しました。

 沼田次郎が降参しても、河野通盛はなお抵抗を続けました。しかし、500騎が50騎になるまで討たれ、城から落ちました。さらに、落ちているときに、教経の侍の平兵衛為員の200騎に包囲され、主従7騎になるまで討たれました。7騎は、助けの船に乗るため、細道に入って汀の方へ逃げていました。7騎を、屈強の弓の名手で平兵衛為員の息子・讃岐七郎義範が追いかけ、5騎を討ち落としました。

 讃岐七郎義範は、河野通信がわが身に替えてもと思っている郎党に馬をおし並べ、馬から落とし、取り押さえつけて、首をかこうとしました。そこに、河野通信が取って返し、郎党の上に乗っている義範の首をかき切って、深田へ投げ入れました。それから大音声をあげ、「伊予の国の住人、河野四郎越智通信、生年21。いくさはこうするものだ。われと思わん者は、寄って、討てや」と名乗り捨て、郎党を肩にかつぎ、そこを難なく切り抜け、伊予の国へ渡りました。

 平教経は、河野通信は討ち漏らしましたが、降人となった沼田次郎を引き連れ、一の谷に戻りました。

 阿波の国の住人の六郎・安摩忠景も平家に背き、源氏に心を通わせました。大舟2艘に兵糧米を積み、物の具を入れ、都を目指しました。しかし、福原の平教経がそのことを知り、小舟を出して追いました。安摩忠景は、西宮の沖で、教経の船団に遭遇し、防戦しました。

 教経は、「逃すな、漏らすな」と猛烈に攻めてきます。安摩忠景は、これはかなわないと思ったのでしょう、和泉の国の吹飯の入り江に立て籠もりました。

 また、紀伊の国の住人で兵衛・園辺忠康も平家を快く思っていなかった武士。安摩忠景が平教経に手痛く攻められて和泉の国の吹飯の入り江にいると聞き、100騎あまりの手勢で、和泉の国へ入り、安摩忠景とひとつになって、城郭を構えました。そこにも平教経は攻め寄せます。安摩忠景と園辺忠康はかなわないと思ったのでしょう、わが身だけで京へ上りました。平教経は、残って戦った130人ほどの首を切り、福原へ戻りました。

 さらに、豊後の国の住人、次郎・臼杵惟隆、三郎・緒方惟義、伊予の国の住人、四郎・河野通信がひとつになり、都合2000人で、小舟に乗り、備後の国へ渡り、今木城に立て籠もりました。平教経はまたもや福原で聞きつけ、捨て置けないと、3000騎で備前の国に馳せ向かいました。今木城に攻め寄せましたが、教経は「やつらは手強い敵なので、援軍を送るべし」と伝達し、福原から数万騎の軍兵が差し向けられるといわれました。城内の兵たちは、手を尽くして戦い、敵の首をとるなど功名を立てたあげく、敵は多勢で味方は無勢なので、「包囲されてはかなわない。ここから落ちて、しばし、生き長らえよう」と、臼杵惟隆と緒方惟義は、豊後の国へ渡り、河野通信は伊予の国へ渡りました。

 平教経は、今はもう攻めるべき敵がいないと、福原へ戻りました。平宗盛をはじめとする雲客が皆寄り集まって、平教経の毎度の高名に感動しました。

(2012年1月18日)


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