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(264)征夷大将軍

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登場人物:源頼朝、中原泰定、三浦義澄、和田宗実、比企能員、狩野工藤一臈祐経

 鎌倉の源頼朝は、武勇の名誉が高まり、鎌倉にいながらにして、征夷大将軍の院宣が下されました。

 院宣の使者は、左史生・中原泰定で、寿永2年(1183年)10月4日、関東へ下りました。

 頼朝は、「頼朝は武名が高く鎌倉に居ながらにして征夷大将軍の院宣を受けることになった。なので、わたくしに受け取るべきではなく、鶴岡八幡宮の拝殿にて受け取るべきだ」と言い、鶴岡八幡宮に行きました。鶴岡八幡宮は地形が勧請元である石清水八幡宮と同じで、回廊があり、桜門があります。社殿の前には、10町ほどの道が続いています。

 そして、院宣を誰が受け取るかの詮議があり、三浦介義澄(うみらのすけ・よしずみ)が受け取ることになりました。義澄は関東8か国に名の知れた強者で、桓武平氏の平太郎・三浦為嗣の末えい。そのうえ、父の三浦義明は頼朝のために衣笠城で討ち死にしていました。院宣の受け取りに義澄が選ばれたのは、義明の亡魂を慰めるためといわれました。

 院宣の使者・中原泰定は、一族の家来2人と、郎党10人を供に連れて来ました。義澄も、一族の三郎・和田宗実と藤四郎・比企能員(のりかず)と郎党10人を連れて参上しました。郎党10人は名田(名を冠した領地)を持っている者で、一人ずつ交代して任に当たりました。

 三浦義澄のその日の出で立ちは、喝の直垂、黒糸縅の鎧、漆黒の太刀、24本差した切斑の矢、滋藤の弓、甲は脱いで高ひもに掛けていました。院宣を受け取るために、腰をかがめました。

 中原泰定は、「ただ今、院宣を受け取ろうとしている者は誰だ。名乗りたまえ」と問いました。義澄は、兵衛佐(ひょうえのすけ、頼朝のこと)の「佐(すけ)」の字に遠慮したのか、三浦介(みうらのすけ)とは名乗らずに、本名で「三浦荒次郎義澄」と名乗りました。院宣は、ふたのある藤葛の箱に入れられていました。義澄は院宣を受け取り、頼朝に渡しました。

 しばらくして、箱が返されました。重さがあったので義澄が開けてみると、砂金100両が入っていました。源氏は、鶴岡八幡宮の拝殿で、泰定に酒を振る舞いました。賀茂の斎院の事務を司る斎院司の次官・中原親能が給仕役を務め、五位の者が運び役を務めました。馬が3匹、引かれてきました。一匹に鞍が置かれています。大宮の侍の狩野工藤一臈祐経がその馬を引きました。古い萱屋(かやや)に手を入れて、そこに泰定を入れました。厚綿の衣を2かさね、小袖10、長持ちに入れてありました。藍で紺色に染めた摺りと、白い布千端が積まれていました。酒宴の膳は、豊かで、華やかでした。

(2012年1月9日)


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