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登場人物:平宗盛ほか
京の都を捨てた平家は、旧都福原に到着しました。福原で、平宗盛がしかるべき侍、老若数100人を集めて、言いました。
「積善のよころびは尽きて、積悪の罪過がふりかかってきた。神明にも見放され、後白河法皇にも捨てられ、京の都を出て旅泊に漂う以上は、何ものも頼みにできない。一樹の陰に宿るのも前世からの因縁があるからで、同じ道を歩む者は前世からの因縁がなお深い」
「ましてや、汝らは、権勢に一時的に従う外部の人間ではない。累祖相伝の家臣だ。あるいは、親類のよしみもある。代々に渡り深い恩を被っている者もある。平家繁栄の昔には、その恩恵をこうむって楽しく暮らしを送ったこともあったであろう」
「今どうしてその恩に報いないことがあろうか。しかれば、十善の帝王・安徳天皇、三種の神器を奉じて西国へ渡るうえは、たとえ野の末、山の奥までも、安徳天皇の行幸のお供をして、どのようにもなろうと思わないか」
宗盛の言葉を聞いた老若は皆、涙を抑えて答えました。
「あやしの鳥や獣でも、恩を報じて徳に報いる心を持っている。いわんや人の身において、どうしてその理を知らないことがあるか。なかんずく、馬上で弓矢を携える者は、二心をもって恥となす。そのうえ、この20年の間、妻子を育み、扶持をもらったこともすべて君の御恩。しかれば、日本の外、新羅、百済、高麗、契丹(内外蒙古)、雲の果て、海の終わりまで、行幸のお供をつかまつり、いかにも成り果てん」
人々が異口同音に告げる言葉を、一門の人々は頼もしく思いました。
安徳天皇の行幸一行は、福原で一夜を明かしました。時候は、秋の下弦の月のころ。空も月も閑散として、旅の寝床の草枕は露にも涙にも濡れ、ただもの悲しい限りです。
福原はいついつに戻るなどと想定されていた場所ではありませんので、平清盛が造り残した福原の都は、3年の間に荒れ果てていました。春に花見をした丘の御所、秋に月見をした浜の御所、泉殿、松陰殿、馬場殿、二階の桟敷殿、雪見の御所、萱(かや)の御所、人々の邸、五条大納言・邦綱が造営した里内裏、飾りを施した瓦、玉の石畳に至るまで荒れ果て、苔が道を塞ぎ、秋草が門を覆ってしまっていました。瓦には松が生えて、ツタが茂っています。御殿は傾き、苔むしています。通うものは松風ばかりと見え、御簾が破れて、寝屋があらわになっています。月影ばかりが差し込んでいます。
翌朝、平家は福原に火を掛けました。安徳天皇をはじめ、人々は皆、船に乗ります。京の都ほどではありませんが、福原も名残惜しく、海辺の民が海藻をかき集めてたく夕方の煙、尾上で暁に鳴く鹿の声、渚ごとに寄せる波の音、袖にさす月影、千草に巣をつくるコオロギ、目に見えて、耳に触れるもののすべてが、一つとして哀れを誘わないことはなく、心を痛めないことはありません。
過ぎし日に逢坂の関の東に10万騎を並べ、今日は西海の波の上に7000人で船を漕ぎ出す。まさに長恨歌にある『雲海沈々として、晴天既に暮れなんとす』。孤島が夕霧に霞んで、月が海の上に浮かんでいます。和漢朗詠集に詠われた『極浦の波を分け』、潮に引かれて行く舟は、水平線にぼんやりと浮かぶ雲へ向かいます。
やがて数日すると、都は山川を隔てた先になり、都を覆っていた雲からも離れました。伊勢物語ではありませんが、『はるばる来ぬ』と思えども、ただ尽きないものは涙。波の上に白い鳥の群れを見出しては、在原業平が『名にしおはば/いざこととはむ都鳥/わが思う人はありやなしやと』と関東の隅田川で船頭に尋ねた都鳥の歌が思い出され、名前も『都鳥』とあわれに思われました。
寿永2年(1183年)7月25日、平家は都を落ち果てました。
(2011年12月31日)
(251)「巻の七」のあらすじ
(252)後白河法皇の山門御幸
(253)源義仲の上洛、平家追討の院宣
平家物語のあらすじと登場人物
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