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登場人物:源義仲、覚明
源義仲は、越前の国の国府に到着しました。家の子・郎党を集めて評定しました。
「義仲は、近江の国を通って都へ上ろうと思う。例の比叡山延暦寺の山僧どもが、邪魔をすることが考えられる。蹴散らして通ることはたやすいが、今は平家が仏法をものともせず、寺を滅ぼし、僧を殺し、悪行をしている。平家の悪行を阻止するために上洛しようとする義仲が、平家に味方するからといって比叡山延暦寺の宗徒と戦えば、平家の二の舞になる。これこそ、たやすいことに見えて、あとで重大事になる」
義仲がそう告げると、祐筆の大夫坊・覚明が進み出て言いました。
「山門の大衆は3000人いますが、必ずしも皆が心を同じくしているわけではありません。平家に同心する者も、源氏に同心する者もおりましょう。せんずるところ、まずは、牒状を出してみなされ。返牒で、山門の様子もわかるでしょう」
義仲は、「その儀もっともなり。されば、書け」と命じ、覚明に牒状をしたためさせ、比叡山延暦寺へ送りました。
義仲はつらつら平家の悪行を見るに、保元・平治よりこの方、長く人臣の礼が失われている。しかしながら、平民も僧侶も、手をこまねいている。
平家は、帝位をほしいままに操り、飽きるほど国郡を所領している。道理のあるなしにかかわらず、権門勢家を追い落とし、有罪無罪を問わず、卿相侍臣を滅ぼしている。その財を奪い、ことごとく、一族・郎党に与え、荘園を没収して子孫に与えている。
中でも、去る治承3年(1179年)11月に、後白河法皇を鳥羽離宮に幽閉し、関白の藤原基房を九州の僻地に流した。民は言葉を発しないが、道を行き交う際に、目や顔で語っている。
それのみならず、治承4年(1180年)5月には、第2皇子以仁親王の御所を囲み、禁中を驚かせた。以仁親王は非文の害をのがれるため、ひそかに園城寺三井寺へ入られた。その際、義仲は宣旨を賜っていたので、都へ馳せ参じるためにむちをふるわんとほっしたが、敵が巷に満ちていて、駆け付けることができなかった。近隣の源氏ですら都へは行くことができなかった。
しかるに、命を軽んじて義を重んじた園城寺三井寺は、場所が悪く、狭いので、精いっぱい戦ったが、多勢に攻められた。源頼政らは、しかばねを宇治川の古岸の苔にさらし、命を長河の波に流した。令旨の趣旨を肝に銘じ、頼政らの悲しみを魂に刻んだ。そのため、東国・北国の源氏は、各々、上洛を企て、平家を滅ぼさんと欲した。
義仲は、去る年の秋、宿望を達っせんがため、旗を揚げ、剣を取り、信州を出た。越後の国の住人の城長茂が数万の軍勢で出てきたので、義仲はわずか3000の兵を率いて、越後の国の横田河原で合戦し、敵の数万の軍勢を破った。
義仲の武名が伝わり、平家の大将軍が10万の軍勢を率いて、北陸に出てきた。越後、加賀、砥浪、黒坂、塩坂、篠原以下の城郭で、数回、合戦におよび、義仲は計略を巡らせて、勝利を収めている。敵は、撃てば必ず降伏し、攻めれば必ず逃げて行った。秋の風が芭蕉を破るのと同じで、冬の霜が草を枯らせるのに等しい。これはひとえに、神明・仏陀の助けであり、義仲の武略によるものではない。
平家敗北の上は、義仲は上洛を計画している。今にも、比叡山延暦寺の麓を通り、都に入らんとす。
その時にあって、密かに疑い危ぶんでいることがある。
そもそも、天台の宗徒は、平家と心を同じくするのか、源氏に加勢するのか。
もし、平家と同心するなら、比叡山と合戦すべし。もし合戦となれば比叡山はすみやかに滅亡することになる。
悲しいかな、平家は朝廷を悩まし、仏法を滅ぼすため、その悪行を鎮めるために義兵を起こした。なのに、3000の宗徒に向かい、不慮の合戦をしなければならないとは。
痛ましいかな、薬師如来と山王権現にはばかって上洛をしなかったら、怠慢な臣下として、長く武名をそしられる。
ここに進退極まって、前もって、牒状を送った次第。
請い願わくは、天台の宗徒におかれては、神のため、仏のため、国のため、君のため、源氏に同心し、兇徒を誅し、朝廷の恩恵を浴びんことを。誠意を尽くして願う。源義仲、恐惶謹言す。
寿永2年(1183年)6月10日 源義仲進上。慧光坊律師御坊へ
(2011年12月28日)
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