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(232)篠原合戦

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登場人物:今井兼平、畠山重能、小山田有重、宇都宮朝綱、高橋長綱、樋口兼光、落合兼行、入善行重、武蔵有国、仁科、高梨、山田次郎

 平家の軍勢は、加賀の国の篠原に退き、人馬を休めていました。

 寿永2年(1183年)5月20日、木曽の源義仲は5万騎で、篠原へ向かいました。

 義仲軍から、まず、今井兼平の500騎が駆けて行きました。平家方では、庄司の畠山重能、別当の小山田有重、左衛門の宇都宮朝綱の3兄弟が300騎で迎え撃ちました。3人は、京都を守護するため諸国から3年交代で都につめる「大番役」として京にいましたが、平宗盛から「汝らは、古強者なので、いくさの手本を見せよ」と北国へ向けられた者たちでした。畠山勢と今井勢は、はじめに50騎ずつ出して勝負していましたが、のちに、両軍入り乱れての戦いとなりました。

 21日の午(うま)の刻、草も焦げ付く日差しの中、源平の強者たちは「決して劣るまい」と戦いっていました。全身に汗をかき、体中から水を流しているに等しい有り様でした。今井方も多くの兵を失いました。畠山方は、家の子郎党が多く討ち取られ、力及ばず、退却しました。

 次に、平家方から、判官・高橋長綱が500騎で出てきました。源氏方からは、次郎・樋口兼光、五郎・落合兼行の300騎。源平の両軍はしばらく合い構えて戦いましたが、高橋軍は国々から駆り集めた武士で編成されていたので、大将に着き従って戦う者は1騎もなく、「われ先に」と逃げていきました。高橋長綱は心猛き武士でしたが、力及ばず、ただ1騎で南を指して落ちていきました。

 その時、落ちていく長綱を見つけた、越中の国の住人の小十郎・入善行重が、「よい敵」と目に掛け、鞭とあぶみで馬を駆って、長綱の馬に並び、組みました。しかし、長綱は、行重をつかんで、馬の前輪に押し付け、身動きができないようにしてしまいました。

 長綱は、「さて、貴殿は何者だ。名乗れ。聞こう」と告げました。行重は「越中の国の住人、入善小十郎行重、生年18歳」と名乗りました。長綱は涙を浮かべ、「あな無慚。去年、死んだ長綱の子も生きていれば、今年18歳だ。貴殿は首をねじ切って捨てるべきだが、いざ、助けよう」と赦しました。

 長綱は味方を待とうと、馬から降りて休息を取りました。行重もいっしょに休みましたが、「あっぱれな敵、われを助けはしたが、なんとかして討ち取りたい」と思っていました。長綱はそんなことは夢にも思わず、打ち解けて話をしていました。行重はうわさに聞こえた早わざの男だったので、長綱が目をそらせたすきに、刀を抜き、立ち上がり、長綱の甲の内側をしっかりと刺しました。長綱がひるむと、行重は遅ればせながらやってきた3騎と合流しました。長綱は心猛き武士でしたが、敵は多く、手傷を負っていました。ついに運が尽きたのでしょう、長綱は討ち取られました。

 次に平家方から、三郎左衛門・武蔵有国が300騎で雄叫びをあげながら突進してきました。義仲軍からは、仁科・高梨・山田次郎が500騎で迎え撃ちました。有国の軍もしばらく源氏方を支えて戦いましたが、有国があまりに深入りして戦ったので、馬を射られ徒歩になり、甲を撃ち落とされ髪の毛をふり乱し、矢も尽きて、太刀を抜いて戦いました。しかし、矢を7本も、8本も受けて、敵をにらんだまま、立ったまま往生しました。大将がこうなってしまったうえは、軍勢は皆、逃げ出しました。

(2011年12月28日)


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