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登場人物:平重衡、顕真、後白河法皇
養和2年(1182年)は節会以下、儀式は通常どおり執り行われました。
養和2年(1182年)2月21日、太白(金星)が、昴星(ぼうせい、七曜星)の内に侵入しました。天文要録にいわく「太白昴星を侵せば、四斐夷起る」。また、「将軍勅命を承って、国の境を出づ」ともあります。
養和2年(1182年)3月10日、除目が行われ、平家の人々はおおむね昇進しました。
養和2年(1182年)4月15日、前権少僧都の顕真が、日吉社(延暦寺)で、如法書写に法華経一万部を転読することがありました。御結縁のためと、後白河法皇も御幸しました。誰が言い出したのか、後白河法皇が比叡山延暦寺の大衆に命じて平家を追討させるとうわさされ、軍兵が内裏の四方を固めて、平家一門は皆、六波羅に馳せ集まりました。
平重衡が、3000騎を率いて延暦寺へ向かいました。延暦寺では、平家が比叡山を攻めるために登ってくるとうわさされたので、比叡山の大衆は東坂本へ降り下り、どうするべきかと詮議しました。後白河法皇も驚き、公卿・殿上人も顔を真っ青にしました。北面の武士の中には、あまりに慌てふためいて、へどをはく者がたくさんいました。比叡山も、洛中も、大騒動です。
そのような時に、平重衡が、滋賀県大津市内の坂本村の「穴太(あなふ)」の辺りで、後白河法皇を迎え入れ、都へ戻りました。人々は、「後白河法皇が比叡山延暦寺の大衆に命じて平家を追討するということも、また平家が比叡山を攻めるということも、まったくのまゆつばだった。ただ、天魔のよく荒れたることだ」と言い合いました。後白河法皇は、「このようなことになるとは、今後、参詣もおちおちできない」と言いました。
養和2年(1182年)4月20日、円融天皇以来京都の宮城鎮護の神と定められ奉幣された伊勢神宮、石清水八幡宮、賀茂、松尾以下の二十二社へ、神祇官から神々へ祈りや願いらを捧げるための「官幣使」が立てられました。これは、飢饉・疫病撲滅のためでした。
(2011年12月23日)
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