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(204)河内の戦い、鎮西の反乱

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登場人物:平清盛、城助長、城助茂、義基、義兼、源季貞、盛澄、宇佐大宮司公通、緒方維義

 木曽という所は、信濃の南端で、美濃との境になり、都にも近い場所です。平家の人々は「東国が背いたうえに、北国も背いたとは、どういうことになるだろう」と、大いに恐れ騒ぎました。平清盛は、「例え信濃一国の者どもが木曽に従いつくといえども、越後の国には、余五将軍・鎮守府将軍の平維茂の末裔である太郎・城助長(じょうのすけなが)、四郎・城助茂(すけもち)がいて、城兄弟は手勢も多い。命じれば、木曽を討ってまいるだろう」と言いました。「げにも」と言う者もあれば、「いやいや、すぐに大事になる」とささやく人もあったとか。

 治承5年(1181年)2月1日、耳目が行われ、越後の国の住人・城助長が越後の守に任命されました。これは木曽を討伐するための策略といわれました。

 2月7日、大臣・公卿の家々で、仏頂尊勝陀羅尼経一巻の中にある陀羅尼と、不動明王の呪文を書き供養しました。これは、兵乱を鎮めるためと言われました。

 2月9日には、河内の国の石川群に住む武蔵権守入道・義基と、子の石川群判官代・義兼が平家に背いて源頼朝方につくなどとうわさされましたので、平家がすぐに討伐軍を派遣しました。大将軍の大夫判官・源季貞、摂津判官・盛澄以下、3000騎で河内の国へ向かいました。

 義基、義兼の城には、わずか300騎がいたにすぎません。卯の刻(午前6時)から矢合わせをして、一日戦い暮らし、夜に入ると、義基が討ち死にしました。子の義兼は痛手を負って生け捕りにされました。

 2月11日、義基の首が都へ届き、朱雀大路を引き回されました。喪中に賊の首を引き回すことは、堀河院崩御の際に、前対馬の守・源義親の首が引き回された例に従ったといいます。

 河内の住人・義基の首が朱雀大路を引き回された翌日の治承5年(1181年)2月12日、鎮西(九州)から飛脚が到来しました。宇佐大宮司・公通(きんみち)が、鎮西の者どもが、三郎・緒方維義をはじめとし、次郎・臼杵維隆、戸次、松浦党に至るまで、すべて平家に背き、源氏に同心したとのこと。平家の人々は、「東国、北国ならわかるが、西国までもが背くとは」と手を打って、意外であると驚きました。

(2011年12月19日)


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