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登場人物:後白河法皇、成宝、永縁
源頼朝が関東で挙兵しました。頼朝は、石橋山の戦いで惨敗するも、都から派遣された平家の大軍を、富士川の戦いで敗走に追い込みました。
上方では、福原から京へ都を戻した平清盛の命令で、以仁親王・源頼政に呼応して平家に反旗を掲げた南都を、平家の大軍が攻めました。東大寺、興福寺をはじめとし、南都が炎上しました。
平家物語「巻の六」は、治承5年の正月の様子から始まり、高倉上皇の崩御、平清盛の死などが語られます。
治承5年(1181年)元日、内裏では、東国での兵乱、南都の炎上により、元日に百官が大極殿で賀辞を述べる儀式「朝拝」をやめ、安徳天皇の出御もありませんでした。物音もせず、舞楽も奏さず、元日にやってきて歌笛を奏する吉野の奥の国栖(くず)の人も参らず、藤原氏の公卿は一人も来ませんでした。これは、氏寺・興福寺が焼失したためでした。
正月2日、殿上で深く酔う「宴酔」も行われず、男女はうち潜んで、禁中はものものしく見えました。仏法・王法が共に尽きたことはあさましい。
後白河法皇は、「二条天皇(子)、高倉天皇(子)、六条天皇(孫)、安徳天皇(孫)の4代の帝王は、思えば、わが子、わが孫。どうして、政務をとめられて、むなしく年月を送らなければならないのだ」と嘆きました。
正月5日、南都の僧たちが官職を停止されました。朝廷から法会または講論に呼ばれることも停止され、所領は没収されました。なので、形だけでも、大極殿で金光明最勝王経を講説して国家の安泰を祈る「御斎会(ございえ)」はあるべきだろうと僧たちへ沙汰が出ましたが、南都の僧たちは皆、官職を停止されています。京の僧を以て行おうかと公卿詮議がありましたが、しかしながら今更南都を捨て去ることがあってよいものかということになり、勧修寺に隠れ住んでいた三論宗の学匠(=東大寺の学匠)である成宝(じょうほう)が呼び出されて、御斎会が形どおりに行われました。
興福寺の衆徒は皆、老人も、若者も、射殺され、切り殺され、あるいは、煙の中でむせびながら倒れました。わずかに残った者たちは、痕跡を残さず、山林に入りました。
中でも、興福寺の別当で花林院の僧正・永縁は、仏像・経典から煙が立ち上るのを見て、「あな、あさまし」と胸を痛め、ついに死んでしまいました。
この永縁は、とても優雅な人で、ある時、ホトトギス(郭公)の声を聞き、
聞く度に珍しければ郭公
いつも初音の心地こそすれ
と、ホトトギスの声はいつ聞いても初音の心地がすると詠みました。それから、初音の僧正といわれていました。
(2011年12月17日)
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