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橋の上の戦いは、火を噴くような激戦でした。
平家方の侍大将で上総の守・忠清は、大将軍の前に出て、言いました。
「あれをご覧ください。橋の上での戦いで痛手を負っています。今は橋を渡るべきですが、折節、五月雨の時候、水かさが増しています。無理に渡せば、人馬を多く失います。淀、一口(いもあらい、京都市伏見区)へ向かうべきでしょうか。あるいは、淀から八幡下を通って河内へ続く路へ回るべきでしょうか。どうしましょう」
下野の国(栃木県)の住人、足利又太郎・忠綱が、17歳でしたが、進み出て、進言しました。
「淀、一口、河内路へは、インドや中国の武士を召して向けれられるのか」
「まあ、それもわれらが向かうことにはなるのだが、目前の敵を討たずに、以仁親王を逃して奈良へ行かせれば、吉野や、吉野の南方の地・十津川の勢力が馳せ集まって、いよいよ大事となる」
「武蔵の国(神奈川)と上野の国(群馬)の境に利根川という川があります。武蔵の秩父党と、上野の足利党の仲が悪くて、常に合戦していました」
「大手は長井の渡り、搦め手は古我杉の渡りから寄せた際、上野の国の住人・新田入道は足利党に言われ、杉の渡りから寄せようと用意していた船を秩父党に皆破壊され、『今この瞬間にここを渡らなければ、長く弓矢の名折れになる。水におぼれて死ぬなら死のう。いざ、渡れ』と、馬をびっしりと寄せていかだのようにした「馬筏」を作り、渡らせたところ、渡りました」
「足利山から東の坂東武者の習いとして、川を挟んで敵と向かい合う戦いでは、淵や瀬をいやがる暇はないだろう。この川の深さも、早さも、利根川に勝っても劣ってもいない。続けや、殿ばら」
そう告げ、真っ先に川に入りました。
足利又太郎・忠綱に続く武将は、大胡、大室、深須、山上、那波太郎、佐貫広綱四郎大夫、小野寺禅師太郎、辺屋子四郎(へやこのしろう)。家臣団には、切生六郎、田中宗太をはじめとして300騎あまり。
忠綱は大音声をあげて命じました。
「弱い馬を下流に置け。強い馬を上流に置け。馬の足が川底に届くうちは、手綱をゆるめて歩かせよ。馬の足が届かなくなって馬が飛び上がったら、手綱をかき操って泳がせよ」
「流される者は、弓の「はず」(上下の端)を掴ませろ。手に手を取って、肩を並べて、渡れ」
「馬の頭が沈んだら、引き揚げろ。強く引きすぎて、引きかぶるな。鞍の真ん中・鞍壺によく乗り定まって、あぶみをきつく踏め。水に浸ったら、馬の尻の盛り上がったところに乗りかかれ」
「川の中では、弓を引くな。敵が射ってきても、射返すな。常に、甲の上下左右に広がっている部分「しころ」を傾けよ。しかし、傾けすぎて、甲の頂点の穴・「天辺」を射させるな」
「馬には弱く、水には強くあたれ。川の流れに直角に向かって押し流されるな。水流に逆らわないで、渡れや、渡れ」
忠綱がそういましめると、300騎が1騎も流されず、対岸へ上陸しました。
(2011年11月25日)
(140)平等院の戦い、その5 〜平家の渡河〜
(141)平等院の戦い、その6 〜源兼綱、仲綱、仲家、仲光の最期〜
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