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参議藤原為隆の孫で、蔵人左衛門(右?)権佐(ごんのすけ)藤原定長が、安徳天皇の即位の礼がつつがなく、めでたく終わった様子を、厚い鳥の子紙10枚ばかりにしたため、平清盛の北の方・八条の二位殿へ見せました。八条の二位殿は笑みを浮かべてよろこびました。このように華やかで、めでたいことなどがありましたが、世は依然として不穏に見えました。
そのころ、後白河法皇の第2皇子の以仁(もちひと)親王という人がいました。加賀大納言季成の娘が母で、三条高倉に住んでいたので、高倉の宮と言われました。
以仁親王は、さる永万元年(1165年)11月15日の暁に、人目を忍びつつ、近衛河原の皇太后宮藤原多子の大宮の御所にて、ひそかに元服しました。筆跡が美しく、才覚にも優れていましたので、世が世なら、皇太子に立ち、天皇に即位すべき人物でしたが、故建春門院にねたまれて、押し込められていました。
以仁親王は花の下の春に遊びでは、自ら達筆を披露して歌を書き、月の前の秋の宴では、玉笛を吹いて、自ら雅な音楽を奏でました。そのようにして遊び暮らしているうちに、治承4年(1180年)には30歳になりました。
(2011年11月16日)
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