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治承4年(1180年)3月29日、高倉上皇は船を飾り、還御の途につきました。折節、波風が激しく、船を戻し、その日は、厳島の中の蟻の浦という所に泊まりました。
高倉上皇が、「大明神の名残を惜しみ、誰か歌を詠え」と言いました。
冷泉中将・藤原隆房が
立ち帰る名残もありの浦なれば神も恵みを懸くるしら波
と詠みました。
夜半に風が静まり、海も穏やかになりました。船を出し、その日は、備前の国の敷名の泊(とまり、港のこと)に船を着けました。そこには、去る應保のころ、後白河法皇の厳島神社御幸の時、国司・藤原為成が作った御所がありました。平清盛が高倉上皇のために整えておきましたが、しかし、高倉上皇はそこを使いませんでした。
各々が「今日は4月1日で、衣更えの日だ」と言いはじめ、歌を詠んだりしていると、高倉上皇が、岸の松の枝に色濃い藤の花が掛っていたのを見つけました。
高倉上皇が「あの花を、折って持って来い」と命じました。大宮大納言・藤原隆季が、ちょうど太政官の役人「左史生」の中原康定の小舟が御前を通りかかったのを呼び寄せ、花を取りに行かせました。
中原康定が、花を、松の枝ごと折ってきたので、高倉上皇は「風流の心がある者だ」と感心しました。
高倉上皇が、「この花で歌を詠め」と命じると、大納言・藤原隆季が
千歳経む君が齢に藤波の松の枝にも懸りぬるかな
と詠みました。
4月2日は、備前の国の児島の泊に船を着けました。
5日、空が晴れて、海ものどかになりました。高倉上皇の船をはじめ、皆の船が出発しました。雲の波、煙の波をかき分けて、その日は、播磨の国の山田の浦に到着しました。
山田の浦から、高倉上皇は輿に乗り、福原へ入りました。
6日は福原に逗留し、池中納言・平頼盛の山荘や荒田という場所まで、福原のあちらこちらを見て回りました。
明け7日、福原を出発するので、平清盛の屋敷へ行き、褒賞を行いました。父は五条大納言藤原邦綱、母は右大臣藤原公能の娘で厳島神社御幸に供奉した平清盛の養子、丹波の守・清邦は正下の四位、平清盛の孫・越前少将の平資盛は従下の四位と言われました。その日は、寺井という場所に着きました。
高倉上皇は、還御の際は鳥羽殿には寄りませんでした。都では、すぐに、平清盛の西八条の屋敷へ行きました。
(2011年11月16日)
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