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寝ても覚めても/柴崎友香:あらすじ&書評「移動し続けるわたしたち、群像のなかのわたしたち」

2018年2月11日 23時40分 参照回数:

寝ても覚めても/柴崎友香のあらすじ


 この小説は、泉谷朝子が大学を卒業したばかりの1999年4月から2008年8月までのおよそ10年に渡る恋の記録が大枠となっていて、彼女の一人称「わたし」により語られる。22歳の朝子は大阪で鳥居麦(ばく)という名前の青年に一目ぼれをし恋人同士の関係になるがまもなく彼は単身上海へ渡り、連絡がとれなくなってしまう。

 朝子はその後、友人のえみりんが東京で立ち上げる劇団の手伝いをするという名目で東京に引っ越すがその劇団自体は1年で解散し、そのまま惰性で東京に住み続けるなか、2005年7月に麦とそっくりの顔を持つ丸子亮平と出会い、流れで付き合いはじめる。無意識的に恋人の亮平をかつての恋人の麦と重ね彼を忘れられない朝子だったが、時とともに次第に亮平を亮平として見ることができるようになってくる。しかしそんななか2007年4月、麦は新進気鋭の人気俳優となり、朝子の内心はざわつく。

 恋人の亮平の職場が大阪の事務所に統合されるのを機に、彼女は大阪に帰ることを決める。引っ越し作業をしているところへ、「さあちゃん」と知っている声を聞く。玄関の外にいたのはおよそ10年振りに会う麦だった。和歌山に行くという麦に、朝子は亮平や友人をすべて捨ててついていく。しかし和歌山から新大阪に戻り、博多行の新幹線にふたりで乗ったところで彼女は、隣にいるのが亮平でなく麦であることに気がつき、寝ている彼を起こすことなく岡山駅で新幹線を降りた。

 その後、彼女は好きと伝えるために亮平に会いに行くが、彼から「もう会いたくない」といわれてしまう。亮平は先週から朝子がかつて住んでいたアパートのすぐ裏に住んでいるという。そんな彼に朝子は「わたしもいっしょに住む」とできるだけ大きい声でいった。



寝ても覚めても/柴崎友香の書評「移動し続けるわたしたち、群像のなかのわたしたち」


 柴崎友香という作家による小説は「どんな小説だったか」ときかれても説明するのが非常にむずかしく、それは「小説=物語」としたときに立ち上がる筋の外側にこそ彼女が唯一無二の作家であるオリジナリティが無数に発揮されているからだ。柴崎友香の小説に物語がないということはなく、むしろ『寝ても覚めても』には大きな物語がきちんと用意されている。

 しかし、上記のようなあらすじを抽出したところで柴崎友香の作家性はまったく現れてはくれない。本作の大半は、多幸感に満ちた何気ない日常、雑踏の(主人公からみれば)名もなき人々の会話ややりとり、部屋でつけっぱなしのテレビが伝えるニュースといった描写で埋め尽くされている。これらは決して「あらすじ」として拾われることがないが(というより不可能だ)、「物語として本来記述する必要がない」とおぼしきこのような描写たちが、実は「物語の細部」ではなく「小説の中心」であると気づいたときこの小説が描き出した世界の豊饒さを垣間見ることができる。そして「あらすじ」から得られるものとはまったく異なる印象を持って読了することができるだろう。

 柴崎友香の独特さは、語りの視点や認知、そしてそれらの連続が生む奇妙な論理に現れる。たとえば冒頭の高層ビルの27階から大阪の街を見下ろすシーンではこんな記述がある。

視線を前に向けると、ぺったりとまったく陰影のない白い曇り空の下で、大阪の街はずっと動かずにそこにあった。(文庫版 p10)

 大阪の街が「動かずそこにあった」ことをわざわざ記述した、「しなければならなかった」理由はもちろん「大阪の街が動き続けている」からだろう。「そこにありつづける」ということの方が記述に値するとくべつさを持っているという認知を、この小説の冒頭ではきちんと示す必要がたしかにあった。1999年の大阪と2002年の大阪を比べてもそこにはかならず違いが生じるし、それは街だけでなく人間関係でもそうだ。毎日のように会っていたひとと会わなくなったり、友だちが友だちでなくなったり、むかし好きだった人が恋人になったり……というように、関係性は常に変化しつづける。「亮平くん」が「亮平」という呼称に変わることも含め、こうした雑多な人やものとの動的な関係性を描くことで、ぼくらは真に「時間」を認知できるに至る。朝子の10年は決して激動の時代なんかじゃなく、どちらかといえばおだやかであり静かだ。それでもこの10年でずいぶんと遠いところまで来てしまったと、本を閉じたときに思い知ることになる。さらに小説後半ではこのような記述もある。

雑誌を全部捨てる決心がようやくついたので、紐をかけていた。棚と棚との隙間にも押し込んでいた雑誌と紙袋を取り出すために、四角い部屋の角に置いたテレビのラックを動かすと、壁に黒い跡がついていた。炎から立ちのぼる熱気のような形の跡だった。ついたままのテレビでは、死んだペットのクローンを作る事業を始めた会社のことを紹介していた。アメリカだった。アメリカにはなんでもあった。失った誰かを求める人は、姿形を再現しようとする。心ではなく。死んだ犬と同じ黒い犬を抱いたおばさんは喜んでいた。死んだ犬が生き返ったら、この人のほうが死んだことになるんじゃないかと思った。だからわたしは、大阪に行く。(文庫版 p279)

 この一節で起こっていることはただごとではない。ぼくらが「常識的」と考える知識や論理では決してこの文章を「意味」として受け止めることができず、それはこの文章がこの語り手である朝子の認知と思考が激しく言語表現として表出しているがゆえの現象だからだ。「引越しの準備をするわたし」と実質的に接続不能である「なんでもあるアメリカ」を同一空間内に配置させ、今現在「麦」と「亮平」という瓜二つの男の狭間で揺れる彼女の思考を「死」という永遠に会えない可能性についての一般的思考と地続きのものとみなす。引用文の最後にある「だから」という接続詞は、そうした風景へと読者を引きずり込む大きな重力として機能している。

 以上のような箇所はいたるところで発見できる。柴崎友香の小説ではこうした「わたしがいない世界」への接続があちこちで試みられている形跡が大量にあり、三島由紀夫賞候補にもなった『わたしがいなかった街で(新潮文庫)』ではこの問題が中心に据えられている。『寝ても覚めても』では、朝子はことあるごとに「わたしが知らない(わたしを知らない)人」を凝視するけれども、これは同時に描写されるかれらにとって朝子もまた名もなき「わたしが知らない(わたしを知らない)人」であることを示していて、描写にはこうした交換が不可避的に発生し、その蓄積により群像が形成されている。

 恋愛小説は極論をいえば「わたしとあなたがすべて」という世界観に収束しがちだ。しかし柴崎友香の描く恋愛はあくまで群像のなかで形成されるという点で異質さを備えている。たとえ一人称で恋愛が語られたとしてもそれは世界の中心でなく、もっと隅っこでひっそりとおだやかに、それでいて凶暴なかたちで存在している。そしてその凶暴さは世界のいたるところに潜んでいて、「わたしが知らない」すべてのそれらが目には見えない地下深くのネットワークでつながっている。

 長くなったが、最後に手短にわかりやすく『寝ても覚めても』について言及するならば。「これは傑作じゃない。大傑作だ」という言葉に尽きる。この本ではわたしの知らないひとやものが生きている。

【この記事の著者:まちゃひこ】
文芸作品やアニメのレビューを中心に行うフリーライター。文系一直線かとよく勘違いされるが、実は大学院で物理とかを研究していた理系。その他にも創作プロジェクト「大滝瓶太」を主宰し、小説の創作や翻訳を行っている。電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より短篇集『コロニアルタイム』を2017年に発表。
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