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ミニシアター通信平家物語 > (78)藤原成経・平康頼の帰京

(78)藤原成経・平康頼の帰京

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 治承3年(1179年)3月16日、藤原成経は、明るいうちに鳥羽に到着しました。鳥羽には、洲浜殿といって、藤原成親の山荘がありました。

 成経は山荘に立ち寄りました。住み荒れて年月が経っていました。屋根のある土塀「築地」はありますが屋根はありません。門はありますが、扉がありません。庭に入ると、人の跡が絶えていて、苔がむしていました。池のほとりでは、鳥羽の城南離宮の丘からの春風に、白波がしきりに立って、和漢朗詠集に詠われた紫鴛白?逍遥(しえんはくおうしょうよう)の趣です。成経は、昔この風景を興した亡き父・藤原成親が恋しく、ただ涙を流し続けました。

 家はありますが、すかしのある欄門は壊れ、格子に板を張った戸である蔀(しとみ)、引き戸である遣戸(やりど)もなくなっています。成経は、「ここは成親殿が立っていた場所であろうか。この部屋の隅の両開きの戸である妻戸を、私が今しているようにして、成親殿も出入りしていたのであろうか。あの木を、自ら植えたのであろうか」などと言い、口から出る言葉も、ただ父の事をのみ恋しがっていました。

 3月の6日でしたので、まだ花に名残がありました。楊(やなぎ)・梅・桃・李(すもも)の梢は、季節を知りそれぞれに咲き誇っていました。昔の主はもういませんが、春を忘れない花たちです。

 藤原成経は、花の下に立ち寄り、詠みました。

  桃李不言春幾暮(とうり、もの言わず、春いくばくか暮れぬる)

  煙霞無跡昔誰栖(えんか、あと無し、昔、誰かすんじ)   『和漢朗詠集』巻下

  故郷の花のものいふ世なりせば如何に昔の事を問はまし   『後拾遺集』巻二

 成経がこの古い詩歌を口ずさむと、平康頼も、折りも節し哀れに思い、僧が身に着ける黒染めの衣の袖を濡らしました。日が暮れるまでといってその場にいましたが、あまりに名残惜しくて、夜更けまで留まっていました。荒れた家の習いとして夜が更けると、軒の板の間からさしてくる月明かりには蔭もありません。鶏籠の山(中国の山、修辞)は明けようとしていますが、家路を急ぐ気がしません。

 しかし、そうもしていられないので、また、迎えの乗り物を迎えによこして待っているので、成経は、泣く泣く洲浜殿を出て、都へ向けて出発しました。都への帰りの路上にある成経、康頼の心の内は、うれしくもあり、また、哀しくもありました。

 平康頼にも迎えの車がありましたが、ことさらに名残が惜しくて、それには乗らず、成経の車にいっしょに乗り、七条河原まで行きました。そこで別れましたが、なお名残惜しくて、出発することができませんでした。花の下で遊んだ半日の客、月夜を明かした一日の友、旅人が村雨をやり過ごした一樹の蔭の内の仲でも、別れの名残は惜しいものです。ましてや、憂鬱な鬼界が島の住み家や、船の中、波路を共にし、同じ業因によって同じ報いを受けた身、前世の縁は浅くはないと思われました。

 成経の母は、洛東の正法寺の霊山にいましたが、昨日から、平教盛の屋敷で成経の帰りを待っていました。帰ってきた成経の姿をただ一目見て、「命あれば…」とばかり口にし、衣をかぶって伏してしまいました。

 成経の妻・北の方は、まことに美しく花やいだ人でしたが、尽きせぬ思いにやせ細り顔色も悪く、かつての北の方には見えませんでした。成経の乳母・六条の黒かった髪の毛も白くなっていました。成経が遠流となったときに3歳だった幼い子どもも、今はおとなしくなって、髪の毛を結うほどです。その子の隣に3歳ばかりになる幼い子どもがいましたが、成経が「あれはどういうことだ」と問うと、六条が「これこそ」とばかりに涙を流しました。成経は、「さては、私が遠流となったときに、懐妊した様子があったが、無事に生まれて育っていたということか」と思い出しても悲しんでいました。

 その後、成経はもとのように院に出仕して、宰相中将まで昇進しました。平康頼は、東山双林寺に自分の山荘があったので、そこに落ち着き、まず以下の歌を詠みました。

  故郷の軒の板間に苔むして思ひし程は洩(も)れぬ月かな

 康頼はそのまま山荘にこもって、憂鬱だった昔を思い出し、万法の中で仏法がひとり貴いという由を記した『宝物集』という物語を書いたといいます。

(2011年10月31日)


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