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ミニシアター通信平家物語 > (69)鬼界が島の俊寛

(69)鬼界が島の俊寛

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 そうしているうちに、船を出すことになりました。俊寛は船に乗っては下り、下りては乗って、何としても乗り込もうとしました。藤原成経は夜具を、平康頼は法華教一部を、形見に残しました。

 すでにともづなを解いて、船を押し出しました。俊寛は綱に取り付き、腰まで海に浸かり、脇まで浸かり、足の届くところまで立ちながら船にひかれていきました。背丈に届かない所まで来ると、船に取り付いて、「各々方、さては、ついに俊寛を見捨てるか。日ごろの情けも今は知らずか。赦されないからには都まではかなわずとも、せめて、この船に乗せて九州の地まで連れて行ってくれ」と頼みました。しかし、都からの使者は、取り付く俊寛の手を払って、ついに船を漕ぎ出しました。

 俊寛はやるせなさに、浜に上がって倒れ伏し、幼い者が乳母や母などを慕うように、足をばたばたさせて、「これ乗せて行け、連れて行け」と泣き叫びました。しかし、漕ぎ行く船の習いとして、あとに残るのは白波ばかりでした。

 船はまだ遠くに行っていませんが、俊寛は、涙にくれて船が見えなくなりました。すると、高い場所に走り登って、沖の方を手招きしました。欽明天皇の時、大伴狭手彦が新羅へ遣わされた際、妻の小夜姫が松浦山に登り領巾(ひれ)を降って名残を惜しんだといいますが、その有様も今の俊寛の様子にはかなわないでしょう。

 そうしている間に、船は見えなくなり、日も暮れました。しかし、俊寛は粗末な寝床にも帰らず、波に足を洗わせながら、露に萎れて、ついに夜を明かしてしまいました。それでも藤原成経は情け深い人なので、よきように計らってくれるだろうと頼みをかけ、海に身を投げなかった心情はあわれです。昔、南天竺で早離速離(そうりそくり)という兄弟が継母のために難解の孤島の海巌山に捨てられたといいますが、その悲しみを今こそ思い知ったことでしょう。

 いっぽう、鬼海が島を出た成経と康頼は、平教盛の領地である肥前の国(長崎県)鹿瀬の庄に到着しました。教盛が都から使者を出して、「年内は波風も激しく、道中が覚束ないので、春になってから帰京するのがよい」と言ってきましたので、鹿瀬の庄で年を越しました。

(2011年10月27日)


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