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(46)藤原成親

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 6月2日、新大納言・藤原成親卿を、寝殿の公卿の間に呼んで、食事などを出したが、胸がつまってはしをつけさえしませんでした。

 護送の武士・難波次郎経遠が車を呼び入れ、「はやく、はやく」と告げると、成親は、心ならずも乗りました。「ああ、どうにかして、今一度、重盛殿に会いたい」と思いましたが、それもかないませんでした。見渡せば、軍兵どもが前後左右を固めていて、心を許せる者は一人もいません。たとえ重科をこうむって遠国へ行くといっても、召使一人連れていけないことなどあるだろうか、そう車の中で訴えると、皆、鎧の袖を濡らしました。

 西の朱雀大路を南へ進むと、内裏をも、今は、それまでとは別の場所として見ていました。何年も見慣れた雑人、牛飼いに至るまで、皆、涙を流し袖を濡らしました。ましてや、都に残る北の方、幼い子どもたちの心の内は推し量られてあわれです。

 鳥羽殿を過ぎるときも、鳥羽殿へ後白河法皇が御幸になったときはいつも必ず供をしていたと嘆き、成親の山荘・洲浜(すはま)殿を過ぎるときも、よそに見ながら過ぎました。

 鳥羽殿の南の門を出て、護衛の者たちが、船が遅いと急がせました。

 大納言・藤原成親が「どうせ殺されるなら、都に近いこの辺りで殺されたい」と言うのは、せめてと思ったのでしょう。近くに付き添っていた武士に「誰か」と尋ねると「護衛の武士、難波次郎経遠」と名乗りました。

 成親は「もしこの辺りに、私の近親の者がいないか、探して、一人連れてきてくれないか。船に乗る前に言い置きたいことがある」と告げました。経遠がその辺りを走り回って尋ねましたが、成親に親しい者は一人もいませんでした。

 すると、成親は涙をはらはらと流して、「私が世にあったときは、従いついた者は、1、2千人はいたのに、今は、よその地とは言え、流されようとする私を見送る者のいない悲しさよ」と嘆きました。荒々しい武士たちも皆、鎧の袖を濡らしました。

 成親に添えるものといえば、尽きせぬ涙ばかり。かつては、熊野詣、天王寺詣などには、2つ瓦や、3つ棟作りの船に乗り、供の船を2、30槽も従えていたのに、今は粗悪なかきすえ屋形船に大幕を引き、見知らぬ武士どもに囲まれて、今日を限りに都を出て、波路はるかに赴こうとする心の内は、推し量られて哀れです。

 成親は、ほんらいならば死罪であるところ、流罪に減刑されたのは、ひとえに、平重盛がさまざまに口添えをしたからにほかなりません。その日は、摂津国大物の浦(尼崎市の海岸)に到着しました。

 明けて3日には、大物の浦に、京より使者がくるというので、一同はひしめきました。成親をこの場で誅せよということかと尋ねると、そうではなくて、備前の児島(岡山県児島半島)へ流せとのことでした。

 また、平重盛から文が届きました。重盛は「ああ、どうにかして都に近い片山里にでもと頼んでみたのですが、かないませんでした。世にある面目もございません。しかしながら、命ばかりは乞い受けました。ご安心ください」と記し、警護の難波経遠にも「よくよく仕えよ。決して、お心をたがうようなことはするな」と伝えて、旅の仕度をこまごまと沙汰し、送ってきました。

 成親は、「あれほど寵愛を受けていた後白河法皇から離れ、ひとときも離れていられないと思っていた北の方と幼い子どもたちとも別れ、私はどこへ流されるのだろう。再び故郷に帰って、妻子と相まみえんことも難しいだろう。先年、山門の訴訟によっていったんは流罪となったのを、後白河法皇が惜しんで、西の七条から帰ってくることができた。しかし、今回は後白河法皇からの勘当ではないので、後白河法皇が戻してくれることもあるまい。なんとしたことであろうか」と、天を仰ぎ、地に伏して、泣き悲しみましたが、どうにもなりません。

 夜が明けると、船を押し出して出発しました。道すがらただ涙にのみむせんで、命が消え入ってしまいそうではありましたがさすがに露の命といえども消えることはなく、跡の白波を隔てれば、都はしだいに遠ざかり、日数を重ねると、遠国にすでに近づいていました。

 船を備前の児島に漕ぎ寄せて、民家の粗末な柴の庵に、成親を入れました。島の習いとて、後ろは山、前は海です。磯の松風も、浪の音も、なにもかもがあわれでした。

(2011年10月13日)


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