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(15)平時忠と山門の大衆

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 比叡山の大衆が日吉の神輿をかついで強訴に来ましたが、内裏の門を警護する重盛の武士から矢を浴びせかけられました。大衆は神輿を放置して山に逃げ帰ります。そして日が暮れかかりました。

 夕刻になって、蔵人の左少弁の兼光に命じて、院の殿上にて、急きょ評定が開かれました。去る保安四年(一一二三年)四月に神輿が都に入ったときは、天台の座主に命じて赤山明神に奉納しました。また、保延四年(一一三八年)七月のときは、祇園感神院の別当に命じて祇園の社に奉納しました。評定では今回も保延の例にならうべきだということになり、祇園の別当であった権大僧の澄憲に命じて、暮れ方に及んで祇園の社に安置しました。神輿に刺さった矢は神人に抜かせました。山門の大衆が神輿を内裏の門前に担いできたことは、永久以来治承まで六度あります。そのつど武士どもに防がせてきましたが神輿に矢が刺さったのは今回がはじめてのようです。「霊神の怒りに触れれば災いが満ち溢れるというのに、恐ろしいことだ」と人々はささやきあいました。

 翌日の安元三年(一一七七年)四月十四日の夜半に、山門の大衆が再び都に押し寄せてくるという噂が流れました。高倉天皇は手輿に乗って後白河法皇の御所である法住寺殿に御幸します。のちの建礼門院である中宮平徳子や、宮々は、車に乗って他の場所へ逃れました。関白藤原基房をはじめとして太政大臣藤原師長以下の公卿らはわれさきにと供奉します。内大臣であった重盛は直衣姿で矢を背負って供奉しました。重盛の嫡子維盛は、束帯に矢筒を負って供をしました。洛中は、貴賤上下に至るまで、大混乱になります。

 しかし、山門では、神輿に矢を立てられて、神人宮仕が射殺されて、多くの衆徒が傷を負ったうえは、大宮の大比叡権現、二宮の地主権現以下、講堂、中堂はじめ諸堂をみな一つも残さずに焼き払って各々が野に下るよう三千の衆徒が一同に決議しました。大衆の決議を聞いた後白河法皇は、山門の訴訟には特別の計らいがあるだろうと告げました。後白河法皇の言質を伝え聞いた天台の上僧たちが子細を衆徒に告げるために比叡山に登ると聞こえると、大衆は西坂本まで降りてきて上僧たちをみな追い返してしまいました。公卿の中から平時忠が、そのときはまだ左衛門督でしたが、臨時の奉行となりました。大衆は大講堂の庭に寄り集まって、「時忠めをとっつかまえて、冠を打ち落とし、その身をからめとって湖に沈めてしまえ」などと憤っていました。大衆の興奮を感じとった時忠は、使者を立てて、「しばらく静まりたまえ。衆徒の御中に申すべきことがある」と、懐から小硯と懐紙を取り出して一筆書いて大衆におくりました。中を開いて見ると、「衆徒がみだりに悪を致すは魔縁の所行なり。明王の制止を加うるは、善に至る加護なり」と書かれていました。大衆は、気を静めて、みなもっともとうなずき、谷々に下り、坊へ帰っていきました。平家物語の語り手は、懐紙にしたためた一句をもって三千の衆徒の怒りを静めて、務めを果たしてわが身の恥を逃れた時忠こそ立派であったと感慨していました。人々は、山門の大衆は強訴など乱暴ばかりかと思えば、しっかりと道理をわきまえていたと感心したようです。

 同じ月の二十日に、花山院の権中納言であった藤原忠親を主席とする評議を開き、加賀の国司であった師高を罷免して尾張の井戸田に流罪としました。弟の目代師経は禁獄としました。また、門前で神輿に矢を放った六人の武士も投獄となりました。みな重盛の武士でした。

(2007年6月23日)


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