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(8)平資盛−殿下乗合事件

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 平家の悪行のはじまりといわれる若武者平資盛(すけもり)のエピソードです。

 嘉応元年(一一六九年)の七月十六日に後白河上皇が出家して法皇となりました。ただ、出家したのちも万事の政務をとっていたので、院の御所は内裏と変わりがありませんでした。院に仕える公卿殿上人や上下の北面の武士に至るまで官位俸禄はみな身に余るほどもらっていました。しかし、人の心の常で、なおも飽き足らずに、「ああ、あの人がいなくなればあの国の国司の地位が空く、その人が死ねばその官位につける」などと、親しい連中は寄り集まってささやきあっていました。後白河法皇も、近い者には、「昔より代々に渡り朝敵を諫めた者たちは多かったが、未だこのようなことはない。平貞盛と藤原秀郷が平将門を討ち、源頼義が安倍貞任、宗任を滅ぼし、源義家が清原武衡、家衡を攻めたおりも恩賞はわずかに国守に任命されたに過ぎなかった。いま清盛がかくまでに心のままにふるまっているのは思えばけしからぬ。これも世も末となり王法が尽きたゆえだろうか」ともらしていました。しかし、これといった機会もないので平家をいましめることもありません。平家のほうも、別段、朝廷を恨むようなことはありませんでした。

 そんなときに、世が乱れはじめる根本とも言える事件が起きました。嘉応元年(一一七〇年)の十月十六日に、重盛の次男で新三位中将であった資盛が(そのときはまだ越前守で十三歳)、雪がまだらに降り残り枯野の景色がおもしろかったので、若侍を三十騎ほど連れて、蓮台野(京都市北区の船岡山の西南)、紫野(船岡山の東北)、右近馬場(一条大宮の西)に出て、鷹をあちこちに放し、うずらやひばりを思わせて、終日、鷹狩をして過ごしました。夕暮れどきになって六波羅に帰還します。

 清盛――重盛―――維盛
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             ―資盛(すけもり)

 そのときの摂政は松殿と呼ばれた藤原基房でした。中御門東洞院(なかみかどひがしのとういん)という通りにあった御所から参内するとちゅうに、郁芳門(ゆうほうもん)から入るつもりだったので、東洞院の大路を南に進み大炊御門(おおいのみかど)を西へ曲がりました。大炊御門の大路の猪熊というところで、資盛一行と出会い頭にはちあわせになりました。藤原基房の従者が「何者ぞ、狼藉なり。殿下の御出なり。乗り物より降りよ、降りよ」といらだって叫びました。「殿下」というのは摂政関白のことです。しかし、誰をはばかることなく傍若無人にふるまっていたうえに、引き連れていた武者はみな二十歳にも満たずに、礼儀作法をわきまえている者はいませんでした。殿下の御出であっても馬から降りる礼儀に及ばずに、ただ駆け破って通ろうとしました。暗さは暗し、少しも清盛の孫だとは知らずに、なかには知っていた者もいましたがそ知らぬ顔をして、資盛をはじめとして若武者どもを馬から引きずり降ろしてこてんぱんにしてしまいました。

 資盛は命からがら六波羅に帰り着きます。祖父の清盛に訴え出ました。清盛は激怒します。清盛が「たとえ摂政殿下なりとも、浄海の身内ならば遠慮してしかるべきなのに、はばかりもせずにあのような幼い者に恥辱を与えるとは遺恨の限りである。このようなことがあっては世にあなどられるもととなる。今度のことは殿下に思い知らせねばおられない。なんで恨みを晴らさずにおられようか」と憤ります。すると、重盛は、「私は少しも苦しくは思いません。頼政や光頼などの源氏どもだったら、まことに一門の恥辱とも言えましょう。重盛の子ともあろう者が殿下の御出にあって乗り物から降りなかったことこそ無礼せんばん」といさめて、あの場に居合わせた若武者をみな集めて、「以後、お前たちはよくよく注意せよ。殿下へは、あやまって無礼をはたらいてしまったと、私のほうからおわびをしておく」と申し聞かせて帰しました。清盛は、重盛には黙って、難波経遠、妹尾兼康をはじめとして、清盛の言いつけのほかは世に恐ろしきことのないという田舎出の侍たちを都合六十人あまり集めて、「来る二十一日に、殿下の御出があるはず。どこでもよいから待ち受けて、従者どもの元結いを切り、資盛が恥をそそげ」と命じました。荒くれどもはしかと承知して下がっていきました。

 摂政の藤原基房はそんなことはつゆも知らずに、高倉天皇の元服、加冠、拝官などの議定のために、またしばらくは内裏の宿所に留まるつもりで、いつもよりも着飾っていました。今回は、侍賢門(たいけんもん)から内裏に入るつもりで、中御門を西へ出ると、猪熊堀川のあたりで、甲冑をつけた三百騎あまりの六波羅の荒くれどもの待ち伏せにあいました。荒くれどもは、殿下を取り巻いて一度にどっとときの声をあげました。今日を晴れの舞台とばかりに着飾った従者たちを、ここかしこしに追っかけ追いつめて、さんざんな目にあわせます。一人も残さずに元結いを切ってしまいました。十人の随身のうち、右近衛の府生(ふしょう)の武基も元結いを切られました。蔵人大夫であった藤原隆教は、「お前の元結いを切るのでなく、お前の主の元結いを切るのだ」と言い含められて元結いを切られました。その後は、殿下の車の中に矢を入れたり、簾をひきちぎったり、牛の組緒を切り落としたりと、さんざんに散らかして、喜びのときをあげて、六波羅へ帰っていきました。清盛からは、「上々の首尾だ」と褒められました。

 殿下の車には、因幡の遣使で鳥羽の国久丸という男が供奉していました。国久丸は、身分のいやしい者でしたが気の効くしっかりもので、車をとりつくろい殿下を乗せて中御門の御所へたどり着きます。束帯の袖に涙を落としながら殿下が内裏に入った姿は、言うに忍ばすにあさましいことでした。藤原鎌足公、不比等公は言うに及ばずに、藤原良房、基経公よりこのかた、摂政関白がこのような目にあわされたことは未だかつてありません。これこそ平家悪行のはじめでした。

 それを聞き知った重盛は、恐縮して心を騒がせました。荒くれどもをみな勘当してしまいました。そのうえ、「たとえ入道殿がいかなる下知を下そうとも、なんで重盛に一言も知らせなかったのか。およそ資盛こそ恥知らずだ。栴檀(せんだん)は二葉より香ばしというように、優れた者は幼いときからその兆候があるものだ。十二、三にもなる者が、礼儀をわきまえるべきなのに、このような無礼を働いて入道殿の悪名を立てるとは不考の至りである。罪は、お前に一人にある」と、資盛を当分のあいだ伊勢の国に帰して謹慎させてしまいました。その態度に、君臣はみなこの大将を褒め称えたそうです。この事件のおかげで高倉天皇の元服の議定はその日はできずに、同じ月の二十五日に、後白河法皇の御所である法住寺殿で行われました。摂政藤原基房もそのままにしておくわけにはいかないので、十二月九日に宣旨をだして十四日に太政大臣に昇進させました。十七日には慶びを主上に告げる儀式がありましたが、なおもにがにがしく見えました。

(2007年5月31日)

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