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(6)寺院勢力

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 平家物語には欠かすことのできない寺院勢力が登場します。

 永万元年(一一六五年)の春のころから二条天皇が体調を崩したという噂が流れました。夏には病気が重くなります。二歳になる一の宮を太子に立てると言われているうちに、同じ月の六月二十五日に突然に親王の宣旨を下し、夜のうちに皇位を譲ってしまいました。あまりに急なことなので人々は不安がりました。

 本朝の幼帝の例を見ると、清和天皇は九歳のときに文徳天皇から譲位されました。周の武王が死んだあとに幼い成王が立ちましたが、現実的には武王の弟の周公旦が政治を司りました。周公旦の例にならって九歳の清和天皇を補佐して外祖父の藤原良房が政務につきました。これが摂政のはじまりです。

 鳥羽天皇は五歳で、近衛天皇は三歳で皇位につきました。そのときですら先例のない無理なことと言われたのに、今回は二歳の幼帝が立ちました。世はこの話でもちきりでした。

 そうこうしているうちに、七月二十七日には、二条上皇が崩御してしまいました。二十三歳でした。平家物語の語り手は「蕾める花の散れるがごとし」と感慨していました。宮中は涙に包まれました。亡骸は、その夜に広隆寺の東北で蓮台野(れんだいの)の奥にある船岡山(京都市北区)に葬られました。葬送の夜に、延暦寺と興福寺の衆徒が額(がく)打ち論という騒動を起こしたそうです。

 天皇が崩御したときは延暦寺と興福寺の衆徒が隋行して墓所のまわりに自分の寺の額を立てるならわしになっていました。順序としては、まず聖武天皇の勅願で建てられた東大寺の額が立てられます。東大寺に並び立つ寺はあろうはずがありません。次に藤原不比等が建てた興福寺の額が建てられます。京都の寺では、興福寺に向かい合って延暦寺が額を立てます。次に、天武天皇の勅願で教待和尚、智証大師の創立なるものとして園城寺が額を立てます。

 ところが延暦寺の大衆が何を思ったのか、先例に背いて、興福寺を越えて東大寺のすぐ次に額を立ててしまいました。興福寺の大衆が無法をとがめていると、興福寺の西金堂の堂衆で観音房、勢至房という名を知られた二人の悪僧が走り出てきました。観音房は黒糸をとおした腹巻に白柄の長刀をとり、勢至房は萌黄の鎧に漆黒の太刀をつかんでいました。延暦寺の額を切って落とします。額をさんざんに打ち破り、当時の僧侶が歌った「うれしや水、鳴るは瀧の水、日は照るとも、絶えずとうたえ」という延年舞の歌をうたってはやしたてて、興福寺の衆徒のなかに逃げ帰ってしまいました。延暦寺の衆徒が手向かえば、興福寺の衆徒も黙ってはいないはずでしたが、延暦寺の衆徒は考えがあってのことかおし黙っていました。天子が崩御したときは、草木までも悲しみの色に染まるはずなのに、あまりのあさましい騒動に人々は肝をつぶして散り散りに去っていきました。

 同じ月の二十九日の正午でした。延暦寺の衆徒がおびただしい数で山を下りてくるという噂が流れました。武士や検非違使が比叡山の西のふもとの西坂本に出て防ぎましたが、延暦寺の衆徒はものともせずに打ち破り、都になだれ込んできました。

 誰が言ったのか、後白河上皇が延暦寺の大衆に平家追討を命じたという噂が流れました。軍兵が内裏に参じて四方を固めて警護しました。平家一門は六波羅に集り、後白河上皇も六波羅に駆けつけました。清盛はそのときはまだ大納言の右大将でしたが、この噂に恐れおののきました。清盛の嫡子の重盛が「なんで、このようなときに、そのようなことがあるのか」と制しますが、武士たちはいたずらに騒ぎたてるばかりでした。

 延暦寺の大衆は六波羅には来ませんでした。不意を付いて清水寺に押しかけました。仏閣や僧坊をひとつも残さずに焼き払ってしまいました。葬送の夜の会稽の恥をすすがんためでした。清水寺は興福寺の末寺でした。

 翌朝に誰のしわざか「観音火坑変じて池となるとはいかに」という立て札が清水寺の大門の前に立てられました。観音の力を持ってすれば業火も池となると言われるが清水寺の観音はどうしたことかという皮肉でした。次の日には、「歴却不思議力及ばず」という返し札が立てられました。延暦寺の衆徒が山に帰ると、後白河上皇はあわただしく六波羅から帰っていきました。随行したのは重盛ただ一人でした。清盛が随行しなかったのは、後白河上皇に心を許していなかったためのように思われました。

 戻ってきた重盛に、清盛は「後白河上皇が六波羅に来たこと自体がそもそもあやしいことだ。かねてからたくらむところがあるからあのような噂がたつのだ。重盛も用心するように」と言いました。重盛は「そのことは、言葉にも、顔色にも出すべきではありません。人々に気づかれてはかえって悪い結果になります。それよりも、これを機に、叡慮のままに人々のために情けを施せば、神明三宝の加護がありましょう。そうすれば父上も何を恐れることがありましょう」と清盛をさとしました。清盛は「重盛はのんきなものだ」とこぼしました。

 後白河上皇は、院に着いてから、近臣の者たちに「不思議な噂がたったものだ。つゆも思ってもみなかったことなのに」ともらしました。院に西光法師というきれ者がいました。西光法師は後白河上皇のそば近くに寄って「天に口なし人を持って言わせよと言います。平家に過分のふるまいがあるために、天が言わせたことかもしれません」と告げました。人々は「とほうもないことを。壁に耳あり」とささやきあったそうです。

(2007年4月29日)

平家物語のあらすじと登場人物






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