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(395)平家物語の結末

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登場人物:建礼門院、後白河法皇、大納言佐殿、阿波内侍

 後白河法皇が、出家して大原の寂光院の傍らに庵室を建て、そこに籠る建礼門院のもとを訪れました。建礼門院は、平家滅亡の様子を語ります。

 昔話をしているうちに寂光院の鐘の音が日暮れを告げました。夕日が西に傾くと、名残は尽きないのですが、後白河法皇は涙を抑えて、帰りました。

 建礼門院はしぜんと昔を思い出したのでしょう、止まらない涙に袖を濡らしながら、後白河法皇の後ろ姿をはるかかなたまで見送りました。後白河法皇の姿もようやく見えなくなるころに、建礼門院は、庵室に入りました。

 建礼門院は仏前で、「天子聖霊、成等正覚、一門亡魂、頓証菩提」と祈りました。昔はまず東へ向かい伊勢神宮、正八幡宮を拝み、「天子宝算千秋万歳」と祈ったのですが、今は、西に向かって「過去聖霊、必ず一浄土へ」と祈るのは、悲しいことです。

 建礼門院はいつの間にか、昔を恋しく思われたのでしょう、庵室の障子に、書き留めました。

  この頃はいつ習ひてかわが心

    大宮人の恋しかるらん

  いにしへも夢になりにし事なれば

    柴の編戸も久しからじな

 また、後白河法皇の御幸に供奉した徳大寺実定も、庵室の柱に書きつけたとか。

  いにしへは月に喩へし君なれど

    その光なき深山辺の里

 建礼門院は、これまでの辛かったことや、行く末の嬉しいことなどを思い続け、涙にむせました。その折、山ホトトギスの声が2声、3声、通りました。建礼門院は詠みました。

  いざさらば涙くらべんほととぎす

    われも憂き世に音をのみぞ鳴

 壇の浦の戦いで生け捕りにされた平家一門20人余りの人々は、ある者は首をはねられて大路を渡され、別の者は妻子と別れて遠流になりました。池の大納言・平頼盛以外は、誰も、生きて都に置きませんでした。40人あまりの女房については何の沙汰もなく、親類を頼り、縁にすがっていました。女房たちは積もる思いはありましたが、忍びながら、嘆き暮らしていました。どんな高貴な女房も御簾の中まですき間風が入ってくる家に住み、身分の低い女房は、粗末な廃家の中で塵に埋もれて暮らしました。枕を並べた妹背も都から離れました。やしない育てた親子も、行方知らずのまま別れました。これは、平清盛が、上は天皇をも恐れず、下は万民を顧みず。死罪、流罪、解任、官職の停止を思うがままに行い暮らした報いです。されば、祖父の善悪は、必ず子孫に及ぶと言われるのは疑いなきことです。

 このようにして建礼門院は空しく年月を送りました。そのうちに、建礼門院は尋常ではない具合になり、寝込みました。しかし、日頃から覚悟していたことなので、仏の手に掛けた5色の糸を持ち、「南無西方極楽世界の教主、弥陀如来、本願を過たず、必ず極楽へ導きたまえ」と念仏しました。大納言佐殿と阿波内侍が左右に控え、今生の名残を惜しみ、声々に泣きました。

 建礼門院の念仏の声がだんだんと弱まり、西に紫雲が立ちました。異香が部屋に満ち、空に音楽が聞こえました。人の命には限りがあり、建礼門院は、建久2年(1191年)2月中旬に、ついに、みまかりました。

 大納言佐殿、阿波内侍の2人の女房は、建礼門院が后の位に就いてから、片時も離れず仕えていましたので、最期の別れのときもやるせない様子でした。2人の女房は、昔の縁が皆枯れ果て、身を寄せる場所もありませんでしたが、折々に、仏事を執り行ったことは哀れです。この2人も、正覚の跡を追って往生した龍王の王女・韋提希夫人のように、往生の素懐を遂げたそうです。

(2012年2月18日)


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