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(375)平時忠の流罪

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登場人物:平時忠、平時忠、建礼門院、後白河法皇

 文治元年(1185年)9月23日、都に留まっている平家の残党を皆、流罪にせよと、鎌倉から都へ申し伝えがありました。それなら流罪にしなければということになりました。

平時忠:能登国
内蔵頭信基:佐渡国
平時実:安芸国
平尹明:壱岐国
二位僧都全真:阿波国
法勝寺執行能円:上総国
経誦坊阿闍融円:備後国
中納言律師忠快:武蔵国

 ある者は西海の波の上、別の者は東国・遠国の雲の果て、行く先がどのような場所かも知れず、親しい人々にいつ会えるとも分からず、別れの涙を抑えながら、それぞれに赴く心の内が推し量られて、哀れです。

 中でも、平時忠は、建礼門院が住んでいた吉田を訪れて告げました。

「いとまを申すために、官吏にしばしの時間をもらってきた。時忠は罪が重く、今日すでに配流地へ出発する。同じ都にいて、お役に立ちたいと思っていましたが、このような身になってしまいました。私がいなくなった後にどのようにお暮しになるのかと、心残りで、旅の空も見上げることができません」

 時忠が泣きながら告げると、建礼門院も、「それにしても、昔なじみは、あなただけとなっていたところです。これからは誰が情けをかけてくれるというのでしょう」と、涙が止まりませんでした。

 そもそも、この平時忠という人は、出羽前司具信の孫で、左大臣時信の子です。後白河法皇の后で、高倉天皇の母の建春門院の兄で、姉は平清盛の北の方で八条の二位の尼殿・平時子でした。兼官兼職は心のままで、正二位大納言にもほどなく出世し、検非違使の長官にも3度、成りました。時忠が長官だった時は、からめ捕った緒国の窃盗・山賊・海賊は、有無も言わせず、一人残らず、ひじから下を切り落とし、追放してしまいました。人々からは、「悪別当」と呼ばれました。屋島にいた際に、安徳天皇と三種の神器を無事に都へ戻すようにという院宣を持ってきた使者・召次花方の顔に「浪形」と焼き印をしたのも、忠時の命令でした。

 後白河法皇も、故建春門院の形見と思い、親しく接していましたが、このような悪行には憤り深くどうにもできませんでした。源義経を婿にしていたので、いろいろと減刑を願い出ましたが、かなわず、ついに流されることになりました。

 平時忠の子の16歳の平時家は流罪にはならず、叔父の宰相・時光のもとにいましたが、昨日から時忠の宿所にいて、母で時忠の妻の帥佐殿といっしょに、時忠のたもとにすがり、今を限りの名残を惜しみました。時忠は、『嘆かじなつひにすまじき別れかはこはある世にと思うばかりを』と気丈に口にしましたが、心弱くなっていました。54歳に年老いて、とても仲の良い妻子に別れ、住み慣れた都を遠く離れ、昔は名前だけを聞いていた越路までの旅に赴き、はるばると下向します。道すがら、「あれは志賀唐崎、これは真野の入り江、堅田の浦」などと歌枕を口にしながら、時忠は涙を流し、詠みました。

  帰りこん事は堅田に引く網の

    目にもたまらぬわが涙かな

 昨日は西海の海の上を漂い、源氏への恨みをもやし、今日は北国の雪の下で、家族への愛情と別れの辛さに、故郷の雲を思いました。

(2012年2月13日)

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