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(362)平家一門の大路渡し

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登場人物:守貞親王、七条院殖子、持明院基家、平宗盛、平清宗、平時忠、平時実、平信基、三郎丸、源義経

 三種の神器の内侍所(三種の神器の鏡)と璽(しるし、勾玉)の御箱が都へ戻り、また、高倉天皇第2皇子・守貞親王が都へ帰ってくるというので、後白河法皇から迎えの車が出されました。守貞親王が、心ならずも平家に捕らわれて、西海の波の上を漂っていたことをなげいていましたので、母の七条院殖子(藤原信隆の娘)も、乳母の持明院の宰相・持明院基家(持明院通基の子)も、たいへんよろこび、今か、今かと待ちわびる心の内はどれほどうれしいことか推し量られました。

 元暦2年(1185年)4月26日、生け捕りにされていた平家一門が鳥羽に到着しました。すぐにその日のうちに、都へ入り、大路を渡されました。車体に八葉の蓮華の小さい紋を描いた網代車の前後の簾を巻き上げ、左右の物見の窓も開かれました。

 平宗盛は白い狩衣を着ていました。いつもは色が白く清潔にしていましたが、潮風にやつれて色が黒くなっており、その人とは見えませんでした。しかし、四方を見回して、思い入れをしている様子は伺えました。

 宗盛の息子の平清宗は、白い直垂で、宗盛の車に同乗していました。清宗はうつ伏しながら涙にくれて、顔を上げて辺りを見ることもせず、深く思い入れしている様子でした。

 平時忠の車も続きました。時忠の子・平時実も同じ車で渡される予定でしたが、病気のため渡されませんでした。

 平信基は、手傷を負っていたので、脇道から都へ入りました。

 平家一門が都を渡される様子を見ようと、遠国、近国、山々、寺々から人々が集まり、都じゅうの身分の高い者、低い者、老いた者、若い者もたくさんいて、鳥羽離宮の南門、羅城門の旧跡である四塚、鳥羽離宮と四塚の間の作り道まで人々が詰めかけ、幾千万という数も知れません。ひしめき合う人々は振り返ることもできず、車は回ることもできません。去る治承養和の飢饉(治承4年-養和2年、1180年-1182年)や、東国・西国でのいくさで、多くの人が死にましたが、まだこれほど残っていたのかと思えるほどでした。

 平家が都から落ちて中1年、このように間近に見ると、めでたかった昔のことも思い出されます。あれほど恐れおののいた平家の人々の今日の有り様は、夢か現(うつつ)か区別がつかないほど。身分の低い男女にいたるまで皆、涙を流し、袖を濡らさない者はいませんでした。まして、慣れ親しんでいた人々の心の内は、推し量られて哀れです。父祖の代から平家に伺候していた恩顧の者たちは、多くはわが身かわいさでさすがに源氏に味方しましたが、昔のよしみはすぐに忘れられるものではありませんので、どれほど悲しく思ったことでしょう。皆、袖に顔を押し当てて、目を上げない者も多くいました。

 平宗盛の牛飼いがいました。源義仲の参院の際に義仲の車を引いて義仲に斬られた次郎丸の弟・三郎丸でした。

 三郎丸は、西国では牛飼いの童姿を改め仮に元服して成人の姿になっていましたが、鳥羽で、源義経に告げました。

「舎人や牛飼いなどという者は、いやしき下郎で心無い者ですが、年来、召し使われた志は浅くはありません。何か不都合はありますでしょうか。どうか、平宗盛殿の最後の車を、今一度、引かせてください」

 義経は情けを知る者でしたので、「もっとも、そうあるべきだ。好きにせよ」と許しました。三郎丸はたいへんよろこび、立派に牛飼いの装束を着て、懐からやり縄を出して付け替え、涙にくれました。行く先は涙で見えませんが、牛の歩くにまかせて、泣きながら、車を走らせました。

(2012年2月10日)


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