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(342)源義経

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登場人物:源義経、梶原景時、高階泰経、平知盛、源範頼

 平家物語「巻十」では、一の谷の戦いに負けた平家の様子が語られました。一門の首が都でさらされ、生け捕りにされた平重衡は鎌倉へ送られ、平清盛の嫡孫・平維盛は入水して自死を遂げました。

 都から源範頼を大将軍として、平家追討軍が出発しました。屋島から出てきた平家軍と、備前の国の藤戸でつばぜりあいのような合戦があり、平家は屋島へ退却していきました。「巻十」で、1184年に、寿永から元暦へ改元があったことが語られます。「巻十」は、元暦元年が暮れて終わりました。

 平家物語「巻の十一」は、元暦2年(1185年)の正月の様子からはじまります。

源義経

 元暦2年(1185年)正月10日、源義経は参院し、大蔵卿の高階泰経を通して、後白河法皇に奏聞しました。

「平家は神明にも見放されました。君(後白河法皇)にも捨てられ、都を出て波の上を漂う落ち人になっています。しかし、この3年間、平家を攻め滅ぼすことができず、国々がふさいでいる原因となっていることは口惜しいです。今度、義経においては、例え、鬼界が島、高麗、契丹、雲のはてまでも、平家を滅ぼさない限りは、都へは帰りません」

 後白河法皇は大いに感動しました。よく心して、夜を昼をと、勝負を決せよ、と命じました。

 義経は宿所へ帰り、東国の侍たちへ告げました。

「今度、義経は院宣を賜り、鎌倉殿の代官として、平家追討のために、西国へ出発する。陸は馬の蹄で踏める限り、海は櫨、櫂が立つ所まで、攻め行くつもりだ。少しでも不安がある者は、ここから、すぐに、東国へ帰れ」

 いっぽう平家は、「隙(ひま)行く駒の足早くして」といわれるように、讃岐(香川県)の屋島に渡ってから、正月になり、2月にもなりました。春の草が茂って秋の風に驚き、秋の風が終わって春の草が茂ります。屋島で、すでに3年になりました。

 しかし、屋島へ渡ってからも、東国から新手の数万騎が都へ到着して攻め下ってくるだとか、九州から臼杵(うすき)、戸次(へつぎ)、松浦党がいっしょになって四国へ攻め寄せてくるだとかうわさされ、あれを聞いても、これを聞いても、ただ耳を驚かせ、胆魂をつぶしました。建礼門院、関白・六条基実の北の方(平清盛娘の盛子)、清盛妻の二位の尼殿以下の女房たちが集まって、今度は、どのようなうわさを聞き、どのような目に遭うのだろうかと、嘆き合い、悲しみ合いました。

 中でも、平知盛が口にしたことは、まことに、もっともと聞こえました。

「東国北国の兇徒どもにも、分相応に恩寵を与えてきたが、たちまち恩を忘れ、約束を違え、頼朝・義仲に従った。西国でも同じような目に遭うと思えるので、都に留まって討ち死にしようと、あれほど、申し上げたのに。わが身一つなら心弱いことはないが、今は、妻子らがこのような憂き目に遭うことが悔しい」

 元暦2年(1185年)2月3日、源義経は都を出発し、摂津の国(兵庫県)渡辺(大阪市、渡辺党の居住地)と、福島(大阪市)で舟を揃え、屋島へ攻め込まんとしました。兄の源範頼も同日、都を立ち、摂津の国の神崎で兵船を揃え、山陽道へ向かいました。

 2月10日、朝廷から伊勢神宮と石清水八幡宮に官幣使が立てられ、安徳天皇と三種の神器を無事に都へ返してくれるよう、神祇官の官人と諸司たちが、それぞれの本宮、本社、末社で、祈祈を立てるように宣旨がありました。

(2012年2月5日)


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