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(333)熊野神社

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登場人物:平維盛、斎藤時頼、重景、石童丸、武里

 平維盛、斎藤時頼、重景、石童丸、武里の5人は、熊野を目指して歩き、岩田川(富田川)に到着しました。この川を一度でも渡った者は、どんな悪業・煩悩・罪障も消えるのだと、ありがたく思えました。

 維盛一行は、熊野神社の本宮に着き、証誠殿(第三殿)の御前で、静かに、法文を唱えました。夜中、熊野山の体を眺めると、言葉も、心も及びません。衆生を救い護る大慈悲心が霞となって熊野山にかかり、霊験無双の神明は、音無川(本宮旧社地の所で熊野川に合流する)のほとりに跡を垂れ、鎮座しています。法華経の教法を修行する川岸には、観応の月明かりがさし、六恨懺悔の庭では、迷走の心が消えます。なにもかもが、尊く、ありがたい場所です。

 夜が更けて、人々が静まってから、維盛は、神仏に祈願し啓白しました。父の平重盛も、先年、同じ場所で、「わが命を召して、わが後世を助けたまえ」と祈り申されたことが思い出されて、あわれです。

 維盛は、「数ある中でも、熊野権現は、本地・阿弥陀如来にてあらせられます。念仏衆生・摂取不捨の阿弥陀如来の誓願を違わず、浄土へ導きたまえ」と祈りました。中でも、維盛が、「都に残してきた妻子へ安穏を」と祈られたことこそ悲しい。浮き世を厭い、真実の道に入るといえども、なお、現世への執着が尽きないことは、哀れです。

 翌日、本宮から船で熊野川を下り、新宮へ参詣しました。熊野速玉大神が新宮に遷される前に鎮座していたという神倉山を仰ぎ拝むと、巌に松が高くそびえ、吹付ける風が妄想の夢を破り、流れは清く、川に立つ浪は塵埃の垢(煩悩の垢)をおとすようです。

 新宮の摂社・飛鳥社を拝み、三輪崎佐野の海岸の松原を過ぎ、那智権現の御山に参詣しました。那智の滝は、一の滝、二の滝、三の滝と、三重にみなぎり落ち、数千丈を登ると、岩の上に観音霊像が現れて、まさに観音菩薩の浄土・補陀落山(ふだらくせん)ともいうべき場所。ふもとに立ちこめる霞の下では、法華経を誦経する声が響き、釈迦の成仏後説教した霊鷲山(りょうじゅせん)のようともいえます。

 そもそも、熊野権現が熊野山に鎮座してからこの方、身分のある者もない者も皆、足を運び、首を垂れ、手のひらを合わせて、利益にあずからなかった者はありません。僧坊の瓦が並び、僧侶も俗人も、袖を連ねて参詣します。寛和2年(986年)の夏、花山法皇が、天皇の位から下り、極楽往生のために修行を積まれた御庵室の旧跡には、昔を忍ぶ老い木の桜が咲いていました。

 いくらもいる那智籠りの僧の中に、維盛を、都でよく見知っていたと思える僧がいました。その僧が、同行の僧に語りました。

「あの修行者は誰だと思ったら、ああ、なんと、小松の平重盛殿の御嫡子、三位中将・平維盛殿だった。維盛殿がいまだ四位の少将だった安元2年(1176年)の春、院の御所。法住寺殿にて、50歳を祝う五十の御賀があった。父・平重盛殿は内大臣左大将、叔父・平宗盛殿は大納言右大将で、階下に着座されていた。ほか、三位中将・平知盛殿、頭中将・平重衡殿以下、一門の公卿殿上人が、今日を晴れよと着飾り、舞殿を囲んで楽人を務め、その中で、この維盛殿が桜の花を飾り、雅楽『青海波』を舞い始めた」

「維盛殿のお姿は、露に媚たる花のよう。舞いの袖が風に翻り、地を照らし、天にも輝くばかり。建春門院殿から、関白・藤原基房殿を使いとし、御衣が贈られることになると、父重盛殿が立ちあがり、御衣を受け取った。そして、重盛殿が、礼節にのっとり右肩にかけて、拝賜舞踊を舞った。類まれない面目。居並ぶ殿上人たちも、どれほどうらやましく思ったことだろう。内裏の女房の中には、維盛殿のことを、源氏物語からとって『深山木の中の楊梅とこそ思える』と言った人もいた」

「今に、大臣・大将になる人と思っていたが、今日の維盛殿のやつれ果てた様子は、かつては、想像もできなかった。移れば変わる世の習いとはいうも、哀れなことだ」

 そのように、維盛の姿を見かけた僧がさめざめと泣き語ると、那智に籠っていた僧たちは皆、打衣の袖を絞りました。

(2012年2月2日)


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