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(330)高野山

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登場人物:斎藤時頼、平維盛、観賢、資澄、淳祐、弘法大師、醍醐天皇

 斎藤時頼は、高野山まで訪ねて来た平維盛を見て、「これは現(うつつ)とは思えません。それにしても、どうやって屋島から逃れてきたのでしょう」と告げました。

 維盛は、答えました。

「それよ。都を一門といっしょに出て、西国へ落ちたのだが、故郷に残してきた幼い子どもたちの面影ばかりが浮かんでしまい忘れることができない。そのもの思う心は口に出さなくても伝わってしまったのか、宗盛殿も、二位の尼殿も、『維盛も池大納言・平頼盛のように、頼朝に心を通わせて、二心あるのだろう』と遠ざけるので、心も落ち着かなくなり、ここまで出てきたのだ。ここで出家して、火の中、水の底へでも入ろうとは思うが、ただ、熊野詣でをしたいという宿願がある」

 時頼は、「夢幻の世の中は、古今集に詠われたように『とてもかくても』同じことです。ただ、後世の長き闇こそ心憂く思うべきです」と教え、すぐに、時頼を先達にして、堂塔を巡礼し、奥の院へ参りました。

 高野山は、都城から200里の場所にあり、辺りに住む人はなく、晴れた日に蒸しておこる山気や青嵐は梢をそよぎ、夕日の影も閑散としています。周囲にある八葉の峯や、八つの谷は、まことに心も澄み渡ります。花の色は林の霧の底に霞み、鈴の音は尾上の雲まで響きます。寺院の瓦にシダ類が生え、星霜を久しくへてきたことを伝えています。

 昔、延喜の聖帝・醍醐天皇の御代、醍醐天皇に夢のお告げがあり、檜皮色の御衣が、大師に贈られることになりました。醍醐天皇から弘法大師への勅使は中納言・資澄。資澄が、般若寺の僧正・観賢を連れて高野山に登り、弘法大師の御廟の扉を開き、御衣を着せようとしました。しかし、霧が厚く隔てて、弘法大師を見ることができません。

 観賢が深く愁いの涙を流しました。

「われ慈悲深い母の胎内から出て、師匠の室に入ってのち、いまだ禁戒を犯していません。どうして拝み奉ることができないのでしょう」

 そう告げながら、観賢が五体を地に投げ、真心を示して泣いて祈願しましたので、ようやく霧が晴れて、月が出るがごとくに、弘法大師を拝むことができました。観賢は随喜の涙を流し、御衣を着て、大師の髪の毛が長く伸びていたので、剃りました。まことに、めでたいことです。

 勅使の資澄と観賢は大師を拝むことができましたが、童形で供奉していた観賢の弟子の石山の内供(ないく)・淳祐は大師を拝むことができず、深く沈んでいました。観賢は、淳祐の手を取り大師のひざに押し当てました。すると、その手は一生の間、香りが漂ったといいます。その移り香は、石山寺の経典に今でも残っているそうです。

 弘法大師から醍醐帝へ返事がありました。

「われ、昔、大日如来から潅頂を受けた普賢菩薩に会い、直接、印明を伝えられた。無類の誓願を起こし、辺境の里・高野山に来た。昼夜に万民を憐れみ、普賢菩薩の慈悲深い誓願を行う為にここに住んでいる。肉身に一事を集注し、他念をなくし、普賢菩薩の出現を待っている」

 まことに、かの摩訶迦葉(釈迦十大弟子の一人)が鶏足山の洞窟にこもり、弥勒が下界に出現するのを待っているのも、このようであるかと思われました。

 弘法大師の御入定は承和2年(835年)3月21日の寅の刻(午前4時)なので、今から300年以上前で、弥勒の出現する三会の暁は、まだ56億7千万年も先なのですが、それを待っています。途方もなく長い未来のことです。

(2012年2月1日)


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