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(324)屋島院宣への請け文

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登場人物:平宗盛、平知盛、二位の尼、平重国、平時忠

 後白河法皇から、三種の神器を都へ返せば平重衡(しげひら)の命を助けるという院宣が屋島の平家へ下され、重衡の母で清盛未亡人の二位の尼が、平宗盛へ、三種の神器を返すよう嘆願しました。

 しかし、平知盛が言いました。

「たとえわが朝の重宝・三種の神器を都へ返したとしても、重衡が返されることはないでしょう。そのことをはっきりと、請け文に書いてやりましょう」

 その儀もっともと、平宗盛が請け文を書くことにしました。二位の尼は筆を持ちましたが、涙にくれて覚束なく、重衡を思う心を頼りに、泣く、泣く、返事をしたためました。重衡の北の方・大納言佐殿(大納言典侍・輔子)は何も言わず、衣服をかぶって伏していました。

 請け文をしたためた後、平時忠が院宣の使者・平重国を呼び、「お前は後白河法皇の使者として多くの浪路をしのいで、はるばるとここまで下ってきた。そのしるしに、一生消えない思い出が一つあるべきだ」と告げ、平重国の顔に「浪方」と焼き印をしました。重国が都へ帰り上ったのち、後白河法皇が重国を見て、「お前は花方か」と問いました。「さようです」と答えると、「よし、よし、それなら浪方としても召しかかえよう」と、笑いました。

 後白河法皇はその後で、平家からの請け文を開きました。請け文には以下のとおり、記されていました。

請け文

 寿永3年(1184年)2月14日の院宣は、同28日に、讃岐の国(香川県)屋島の浜に到着。謹んで承ること、くだんのごとし。ただし、院宣について案ずるに、通盛以下、平家一門の者がすでに多数、摂津の国の一の谷で討ち死にしている。そのうえは、どうして重衡一人が返ってきて、よろこぶことができようか。

 それ、わが君・安徳天皇は、故高倉天皇から皇位を譲り受け、すでに、在位4年。古代中国の聖天子堯舜の遺風(仁政)を求めていたが、東国・北国の敵が徒党を組んで都へ押しかけたため、国母・建礼門院、外戚・近臣の憤り深く、しばらくの間、九州に行幸した。

 安徳天皇の都への行幸なくして、どうして、三種の神器だけ玉体を離れて都へ戻すことがあろうか。それ、臣下は君をもって心とし、君は臣下をもって体とする。君がすこやかなら、すなわち、臣下もすこやかで、臣下が安泰なら、すなわち、国家安康なり。君が憂えれば、臣下も憂いに沈む。心中に憂えがあれば、体外によろこびはない。

 先祖・平貞盛が相馬の小次郎・平将門を追討してからこの方、関東8か国を鎮め、子々孫々にわたり朝敵を誅し、代々世々に至るまで、朝家の聖運を守ってきた。しかれば、亡き父の太政大臣・平清盛は、保元の乱、平治の乱の2度に渡る逆乱の時、勅命を重んじて、私(わたくし)の命を軽んじた。これはひとえに君のためで、まったく、わが身のためではない。

 そのうえ、かの頼朝は、去る平治の乱で、頼朝の父・左馬頭の源義朝が謀反を起こしたときすでに成敗されるべきと盛んに言われた。しかしながら、故入道大相国・平清盛の慈悲により、命を救われたのだ。それなのに、昔の広大な平清盛の恩を忘れ、恩に報いる心を持たず、流人の身でみだりに乱を起こした。愚かなことはなはだしい。遅かれ早かれ神明の天罰を招き、成敗されるだろう。

 それ月日は一物のために、その明らかなることを暗くすることはなく、明王は一人のために、その法を曲げることはない。一悪をもってその善を捨てず、わずかの欠点をもってその功績を隠すことなかれ。かつは、当家数代の奉公、かつは、亡父平清盛の数度の忠節、それを忘れていなければ、かたじけなくも、後白河法皇が四国へ御幸するべきでは。そうすれば、臣下である平家は院宣をうけたわまって再び旧都へ帰り、会稽の恥を清めよう。もし、そうでなければ、三種の神器を奉じて、鬼界が島、高麗、天竺、震旦までも行幸しよう。悲しいかな、人皇81代の御代に当たり、わが国の神代の霊宝がついに異国の宝となるのか。

 よろしくこれらの趣をもって、しかるべき様に後白河法皇へ奏聞したまえ。

謹言頓首、平宗盛 寿永3年(1184年)2月28日

従一位前内大臣平朝臣宗盛の請け文

(2012年1月30日)


(325)法然

(326)平重衡の街道下り

(327)平重衡の申し開き


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