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(315)小宰相の入水

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登場人物:見田時員、平通盛の北の方、北の方の乳母

 一の谷で討たれた平通盛の侍に、滝口の武士の見田時員(くんだ・ときかず)がいました。急ぎ通盛の北の方の舟に行き、通盛の最期を告げました。

「通盛様は今朝、湊河の下で、敵7騎に囲まれ、ついに討たれました。中でも特に討った者は、近江の国の住人で佐々木の三郎・木村成綱と、武蔵の国の住人で四郎・玉井助景と名乗りました」

「時員も同じ場所で討ち死にし、最後のお供をしたいと思いましたが、かねてから、『もし通盛はどうなろうとも、お前は命を捨ててはならない。どんなことをしてでも命を長らえて、北の方を尋ねよ』と申しつけられていましたので、甲斐なき命を長らえて、あつかましくも、ここまで参りました」

 北の方は声も出せずに、伏してしまいました。北の方は、いったんは通盛が討たれたとは聞いていたのですが、もしや間違いで生きて帰ってくることもあるのではと、2、3日は、かりそめにもいくさに出た通盛を待っていました。しかし、4、5日もすれば、万が一の頼みも絶望的になり、とても心細く思っていました。北の方にただ一人、ついていた乳母の女房もいっしょに伏してしまいました。北の方は、通盛の死を聞いた7か目の暮れから13日の夜までは、起き上がることができませんでした。

 明けて14日、船が屋島へ渡る宵のころを過ぎるまで、北の方は伏していましたが、夜が更け行くままに、船の中が静まりかえりました。

 北の方は乳母の女房へ告げました。

「今朝までは通盛殿が討たれたと聞いても、まさかと思っていたのですが、今夜ほどには、確かに討たれたと思い定めました。なぜそう言うかといいますと、会う人が皆、『湊河とかいう場所で、討たれた』と言い、生きているという人は一人もおりません」

「明日、出陣という夜、仮屋で通盛様に会いましたが、いつもよりも心細い様子で、『明日のいくさでは必ず討たれるような気がする。私にもしものことがあったら、あなたはどうするというのだ』などと言いましたが、いくさはいつものことなので、確かに討ち死にするとは思わないでいたことこそ、悲しい」

「もし、そのときが最後と分かっていれば、どうしてあの世での契りを交わさなかったのか、そう思うほどに悲しい。お腹に赤ちゃんがいることも、ひごろは隠して言わなかったけれど、かたくなに心中を打ち明けないでいると思われまいとして、告げたら、たいへんよろこんでくださり、『通盛30歳になるまで子がなかったのに、ああ、同じ子なら男子がよい。浮き世の忘れ形見にも思い置くことができる。さて、何か月になる。体の調子はどうだ。いつまでとも知れない船の中の生活なので、もしものときにどうしたらよいのだ』などと口にしたことが本当になってしまいました」

「おそらく、女はお産の時に、10に9は死ぬので、ひどいめに遭って死んでしまうのも心憂い。一人身になってのち、亡き通盛様の忘れ形見を育てたいとは思うが、その子を見るたびに通盛様が恋しくて、思うことはあまたありますが、心休まることはないでしょう」

「もはや、死ぬしかない。もし、不思議に生きながらえ、暮らしても、心任せぬ世の習いなので、思いがけないこと(=人から恋をされること)もあるかもしれない。それを思っても、心憂い。まどろむと夢の中に通盛様が現れ、さめれば面影が見える。生きていて、とにかく通盛様が恋しいと思うよりはと、水の底へ入ろうと思い定めました」

「そなたは一人で留まり、嘆きの数々は心苦しいが、私の装束があるので、それをどんな僧にでも渡し、通盛様の後世を弔ってもらってください。そして、私の後世も祈ってください。書き置いた文を都へ届けてください」

 北の方はそのように細々と告げました。乳母の女房は涙を抑え、さめざめと言い聞かせました。

「幼い自分の子を都に捨て置いて、老いた親も残して、はるばるとここまでついてきた私の志は、少しも考えてくれないのですね。今度、一の谷で討たれた御一門の公達たちの北の方のお嘆きは、いずれも深いと存じます。共に極楽往生を遂げようと思われても、生まれ変わった後は、六道四生が輪廻する中で、どの道に行くのかはわかりません。来世で必ず添い遂げることができるわけではありませんので、御身を海に投げても甲斐のないことです」

「静かに新しい命を生んで、どんな岩木の間ででも、幼い人を育て、尼になり、仏の御名を唱え、亡き人の菩提を弔われなさいませ。そのうえ、都におられるお身内の方々の世話を誰にせよなどと申されること、どうしてそのようなことを言うのでしょうか。恨めしくて、承ることはできません」

 乳母が説得すると、北の方は、今まで、都合が悪いとでも思ったからか告げていなかったことを口にしました。

「私の心になって、思いはかってください。大方、恨めしさ、悲しさがあって身を投げると言うのは世の常ですが、ほんとうに身を投げる人はいません。ほんとうに思い立ったら、まずは、そなたに知らせます。今はもう夜も更けました。さあ、寝ましょう」

 北の方がそう告げると、乳母の女房は、この4、5日、湯水もろくに飲んでいなかった北の方が、このように細々としゃべるので、本当に思い立ったのかと悲しくなり、告げました。

「都のことももっともですが、本当に思い立ったのなら、私も千尋の底まで、いっしょに連れて行ってください。私だけ後に残されたら、片時も生きてはおられません」

 そう告げた乳母は、北の方のそばにいました。しかし、乳母が少しまどろんだすきに、北の方は静かに起き上り、船の端に出ました。四方が海なのでどちらが西かはわかりませんが、月の入る方角の山の端を西方と思ったのでしょうか、そちらへ向かって静かに念仏を唱えました。すると、沖の白洲に鳴く千鳥や、天の川を渡る舵の音が、折に触れ哀れに聞こえたのでしょうか、声を抑えて念仏を100回ばかり静かに唱えながら、「南無西方極楽世界の経主、弥陀如来、本願を誤たず、心ならずも別れた夫婦の仲を、必ず、あの世で一つにしてください」と、泣く泣く願い、「南無」と唱える声と共に、海に身を投げました。

 一の谷から屋島へ渡ろうという夜半のことだったので、船の中は静まりかえり、北の方が身を投げたことには誰も気が付きませんでしたが、寝ずにいた船頭が一人、見つけ、「あれはいかに、御舟から、女房が身を投げたぞ」と叫びました。北の方の乳母は驚き、隣を手で探りましたが北の方はそこにはいませんでした。乳母はただ「あれよ、あれよ」と動転するばかりでした。

 大勢の人が海に飛び込み、北の方を助けようとしましたが、そうでなくとも、春の夜は霞に曇るものなので、四方を雲が覆ったようになり、海に潜れども、潜れども、月がおぼろで北の方の姿が見えませんでした。長い時間が過ぎてようやく引き上げた時には、北の方は、もはやこの世にはない人になっていました。白袴に、練貫の2枚重ねの衣を着ていました。髪の毛も、袴も塩水に濡れ、引き上げても、もう北の方は戻っては来ませんでした。

 乳母の女房は、北の方の手を取り、自分の顔を北の方の顔に押し当てて、嘆きました。

「これ程に決心していたのなら、どうして、私に、千尋の底への供をさせてくれなかったのですか。恨めしくも、ただ一人残されてしまいました。どうか、もう一度声を出して、私に聞かせてください」

 乳母が嘆きましたが、すでに北の方は身罷っていたので、ひと言の返事もありません。わずかに通っていた息も、絶えていました。

 そのようなことがあったうちに、春の夜の月の雲井に傾き、霞んでいた空が明けてきました。別れの悲しさは尽きませんが、そのままにしておくこともできませんので、亡きがらが浮かび上がらないように、故平通盛の大将鎧が一領残っていたので、それを亡きがらに着せ、ついに、北の方を海に沈めました。

 乳母の女房は、今度こそは遅れまいと、北の方に続いて海に身を投げようとしましたが、人々に取り押さえられました。

 それでも、せつない心の耐えがたさでありましょうか、自ら髪の毛を切り落とし、故平通盛の弟・中納言律師の忠快に頭を剃ってもらい、泣く泣く仏の道に入り、北の方の後世を弔いました。

(2012年1月25日)


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