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(273)鼓判官

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登場人物:源義仲、鼓判官・平知康、天台座主・明雲、園城寺三井寺の長吏・円慶法親王、村上三郎判官代・源基国

 都中が源氏の軍勢で満ちていました。あちこちで、源氏の兵が押し入り、強奪をはたらきました。賀茂神社や石清水八幡宮の所領にも押し入り、青田を刈って馬の飼葉にし、人の蔵を開けて物を奪い、路地でも強奪をはたらきました。人々は、「平家の世だったときは、六波羅殿といって大方は恐れをなしていたが、衣服をはぎ取られるまでのことはなかった。平家から源氏に変わって、ひどくなった」とささやき合いました。

 後白河法皇から源義仲に「狼藉を鎮めよ」と下知が出ました。下知の使者は、壱岐守・平知親の子の壱岐判官・平知康。知康は天下に聞こえた鼓の名手で、「鼓判官」と呼ばれていました。

 義仲は知康と対面し、後白河法皇からの下知に返事をせず、「そもそも貴殿を鼓判官というのは、多くの人からたたかれたからか、張られたからか」と問いました。知康は返事もせず、急ぎ院に帰り、後白河法皇に「義仲は、ばか者です。早々に、追討すべきです。すぐにも朝敵となりましょう」と奏上しました。

 後白河法皇はすぐに義仲追討を決意しました。しかるべき武士に義仲追討を命じることないまま、比叡山延暦寺の天台座主・明雲、園城寺三井寺の長吏・円慶法親王に命じ、延暦寺と三井寺からこわもての僧兵たちを集めました。公卿・殿上人からも兵を集めましたが、こちらは石の投げ合い程度しかできず、路傍に俳諧するような者たちで、役には立ちませんでした。信濃源氏の村上三郎判官代・源基国が、義仲から離反して後白河法皇方につきました。

 義仲が後白河法皇のご機嫌を損ねたといううわさが立つと、はじめは義仲に従っていた五畿内の者たちが皆、義仲に背き、後白河法皇につきました。

 この情勢を見て、今井兼平が義仲に進言しました。

「これこそもっての外の一大事。しかし、十善の君(天子)に向かって、どうして合戦ができましょう。今はただ、甲を脱ぎ、弓の弦をはずし、後白河法皇の前にひざまずくべきです」

 兼平の言葉を聞いた義仲は、激怒しました。

「われは、信濃を出てから、小見・会田で合戦を始め、北国にては砥浪、黒坂、塩坂、篠原で戦い、西国では福隆寺縄手、篠(ささ)の迫(せま)り、板倉の城を攻めたが、一度も敵に背を見せたことはない。たとえ十善の君であろうとも、甲を脱ぎ、弓の弦を外して、降人には断じてならない」

「たとえば都を守護する者が、馬一匹も飼わずして務まるか。幾らもある田を刈らせて飼葉にすることを、後白河法皇がどうしてとがめることができるのだ。冠者たちが西山、東山辺りに行って時々、押し入って略奪したとしても、何のことではない。大臣以下、宮たちの御所へ押し入ったわけでもないのに、でたらめだ」

「これは鼓判官めの中傷だ。その鼓を打ち破ってくれる。今後は義仲にとって一代の戦い。頼朝への聞こえもある。いくさの支度をせよ、者ども」

 義仲は、そう告げて飛び出していきました。

 北国の軍勢は、はじめは5万騎いましたが、皆国元へ戻り、都にはわずか6、7000騎が残っていただけでした。

 義仲はいくさの吉例なので、軍を七手に分けました。先陣の樋口兼光2000騎は、東山の今熊野社の方から搦め手に回しました。残る六手はそれぞれ、大路小路をへて六条河原で合流すると定めて出発しました。味方の笠しるしには、松の葉をつけました。

(2012年1月10日)


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