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(261)大宰府落ち

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登場人物:平知盛、平資盛、野尻惟村、平時忠、安徳天皇、源季貞、盛澄

 平家は、筑紫に都を定め内裏を造ろうと詮議しましたが、緒方惟義の謀反により、それもかなわなくなりました。平知盛は、「かの緒方惟義は、平重盛殿の御家人なので、子息の君達の一人が出向き説得してどうだろう」と意見しました。「もっともだ」となり、平資盛が500騎を連れ、豊後の国に行き、さんざんなだめました。しかし、惟義は従いませんでした。そのうえ、「あなたもここで捕らえるべきだが、それは大事の前の小事なのでしない。大宰府へ帰って、平家一門といっしょにどうにもなりなされ」と申し渡しました。

 その後、惟義が次男の野尻惟村を使者に立て、大宰府の平家に、「確かに平家には重恩がある身なので、甲を脱ぎ、弓の弦を外して平家に従うべきだが、一院(後白河法皇)の仰せでは、平家を速やかに九州から追い出せとのこと」と申し伝えました。

 平家では、平時忠が、くくりの緒の緋色の直垂と葛布の袴に烏帽子姿で惟村に対応し、返しました。

「それ、わが君・安徳天皇は、天孫49世の正統で、神武天皇から数えて人皇71代目に当たる。されば、天照大神・八幡大菩薩も、わが君をこそ守らせたまえる。そのうえ平家は保元・平治からこの方、度々の反乱を鎮め、九州の者どもを皆、朝廷のお味方としてきた。しかるにその恩を忘れ、東国・北国の兇徒である源頼朝、源義仲らにくどかれ、成功の暁には国を預ける、荘園を与えるなどと言われたことを真に受け、『鼻豊後』の下知に従うことこそけしからん」

 『鼻豊後』とは、極めて鼻が大きかった豊後の国司の刑部卿三位・頼輔のこと。惟村は戻ってから、父・緒方惟義に時忠の言葉を伝えました。惟義は、「なんということだ。昔は昔、今は今。それならば、九州から追い出してしまえ」といいました。惟義のもとに九州の勢力がぞくぞくと集まっていると伝えられ、大夫判官・源季貞、摂津判官・盛澄は「今後、わが方のためにのぞましくないので、召し取ってしまおう」と、3000騎を率いて筑後の国へ行き、高野の本城を攻め、一日一夜、戦いました。しかし、惟義勢が雲がのごとくに連なっているので、力及ばず、ついに引き返しました。

 平家は、惟義が3万騎の軍勢で既に攻めて来ているといううわさが流れたので、大宰府を落ちました。

 平家は、さしも頼りにしていた天満天神の注連(しめ)と心細くもうち別れ、腰をかつぐ者がいなかったので、天皇の御輿は名ばかりが聞こえ、安徳天皇は腰輿に乗せられました。国母・建礼門院をはじめとするやんごとなき女御たちは皆、袴の裾を高くして、平宗盛以下一門の雲客は指貫の股(もも)立ちを高く挟み、裸足で水城の関を出て、われ先に、われ先にと、箱崎の港へ落ちました。折節の豪雨となり、吹く風が砂を巻き上げたとか。平家は、落ちる涙と降る雨で何も見えないまま住吉神社、箱崎八幡宮、香椎の宮、宗像神社を拝み、安徳天皇をただもとの都へ戻したいと願いました。

 平家は、樽見峠・内浦浜などの難所を越えて、はるかに遠い浜まできました。こういったときの常で、足から出る血が砂を染め、紅の袴がますます赤くなり、白い袴の裾は赤く染まりました。かの玄奘三蔵が中国の西域からインドへ続く険しい道のりを越えた悲しみも、これに勝るとは思われません。玄奘三蔵は求法のためで、自他の利益のためもあったかもしれませんが、平家は戦いに敗れてのことなので、来世の苦しみも思い起こされて悲しいことです。

(2012年1月7日)


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